もし、何かの偶然か必然で、あなたと再び会えたなら、楽しい思い出をありがとう、と頭を下げて、「さよなら」をきちんと伝えたい。

3.11の震災後、誰にも「さよなら」を言えずに街を出た

11年前の3.11の地震の時、私は小学校4年生で、福島市にいた。
まだ授業中だったので、みんなで急いで校庭に避難し、その日は着の身着のままで、雪が降る中、集団で下校した。
地盤が緩い地区だったこともあり、自宅は倒壊が心配だったので、近くの保健センターに避難し、一日過ごした。翌日家に帰ると、テレビの向こうで、爆発が起こっていた。原子力発電所の事故だった。
それからはすべてが一瞬で、気が付いたら父親だけを福島に残し、母と妹弟と共に、私は弘前市にいた。

親しい人を亡くしてしまったわけではない。
思い出の場所を失ったわけでもない。
でも、誰にも「さよなら」を言えずに、街を出た。
震災当日以降、一度も学校に戻ることもなかった。

元々転勤族だったから、転校する覚悟はあった。
小学生ながら消してしまいたい恥ずかしい記憶も沢山あったし、どうしても残りたいほど離れがたい友だちもいなかった。
だから寧ろ、その引っ越しは、消してしまいたい自分を、過去のものとして置き捨てることができる、絶好のチャンスだった。
その時密かに4年間片想いをしていた同級生がいた以外は、後ろ髪を引かれるものは、何もなかった。

伝えたい感謝の気持ちは多分、本音じゃない。美化された記憶だ

しかし、年を重ね、色々な出会いと別れを経験する中で、あの時「さよなら」を言えずに街を出たことに、もやもやを感じるようになった。 
別れの一つには、さよならさえ言えずに、急に亡くなってしまった友達もいる。
でも、生きて会えるなら、きちんと感謝とさよならを、伝えておきたかった。
今からでも、伝えたい。

福島での日々を思い出す度に、同級生への感謝と、一緒に卒業したかったという思いが募って行った。
振り返ってみれば当時の私は今以上に自己中心的だったし、友だちの悪口も平気で言っていた。特に理由もないのに「うざい」という理由で仲間外れにしたこともあった。
そんな私でも、一緒にいてくれた友だちに、感謝……と、ここまで書いたところで手が止まった。

正直ではない自分の気持ちが混じっている。
多分、これは本音じゃない。
美化された記憶だ。

注意深く思い出してみれば、ほんとうはきっと、辛いことを一緒に乗り越えたり、喧嘩をするほど仲が良かったりした訳ではない。
休みの日も常に一緒にいたり、家族ぐるみでの付き合いがあったわけでもない。
中学校も絶対一緒がいいとか、親友だよとささやき合ったこともなかった。
でも、休み時間はよく一緒に遊んだ。
他愛のないおしゃべりをして、休みの日もたまに会ったりした。
「親友」や「大好きな友達」ではないけれど、一緒に時間を過ごしてくれた大切な人たち。

ささやかな感謝とけじめ。当時の素直な気持ちでもう一度会いたい

だから多分、私が伝えたいのは、「胸いっぱいの感謝」というより「静かで穏やかな感謝」の気持ちだと思う。
あの時、一緒に時間を過ごしてくれてありがとうという、ささやかな気持ち。
それと、「さよなら」というお別れの挨拶を。
美化された思い出にいつまでも浸らなくて済むような、ちょっとした儀式。思い出とのけじめ。

「忘れないで!離れていても友だちでいたいの」
それほどの強い思いは、正直ない。
でも、また会って、あの時の思い出話をしてみたい。
美化された思い出ではなくて、その当時の素直な気持ちでみんなともう一度会いたい。
そんな想いは切実にちゃんと、ここに、ある。
それを想像して、胸躍る自分が、確かにいる。

だから、もう一度、あなたに会えたなら、あの時の思い出と時間にありがとうと、さよならを、伝えたい。