いつからだろうか、私がこれほどまでに“愛”に敏感になったのは。
同僚や知人と話す時は、この発言や行動に愛はあるのかと自然と考えるようになった。どんなにすごいことを成し遂げていても、愛が感じられない人は尊敬するに至れなかった。
つまり私が人を観察し、どんな人であるかと私の目線のみで定義づける時、必ずそこに“愛”という基準値があるのだ。
愛というあたたかなものに対して、なんとなく冷淡に聞こえてしまうのだけれど。
子どもの頃は気づかなかった家族からの愛には、大人になるにつれてだんだんと沢山与えてもらっていたとわかった。多くの人生訓の本から、愛が人々の行動の根源であることを学んだ。
もちろん自分自身もまだ、愛について語れるような深い人間には達していないと思うけれど、圧倒的な衝撃を与えたといえば間違いなく1年間のカナダ生活であったと思う。
十分に伝わる愛情表現。私は愛の分かりやすさに感動した
日本にいる時には目にしなかった、街で人々がハグをする姿。たった数ヶ月家族の一員として生活しているだけなのに、そのホストマザーは私の呼びかけに「yes, honey」と振り向いた。目で、体で十分に伝わる愛情の表現である。
和歌山という日本の中の、さらに小さな田舎で生まれ育った場所と大好きな家族や友達から離れ、遠い地で1年間英語のみの生活を強いられた私にとって、その明らかな愛情表現は強く心に沁みた。愛はこんなにもわかりやすいものなのかと感動した。
1年後、カナダから帰って日本での生活が再スタートしていたある日、お店の列に並んでいた前のカップルは肩を寄せ合い、至近距離でニコニコとしていた。
その時、隣にいた友人が目配せの合図をしてきて、いかにもそのカップルが非常識だというような嘲笑いをしていたのを見て落胆した。
愛がわかりにくいものに変わってしまう瞬間だった。
日本人の、公衆の面前では感情を見せるべきでないという考えの傾向が、愛情表現という世界の“当たり前”を恥とし、非難していることがとても悲しかった。
目に見えない愛も良いけど、完璧な愛情表現に心が満ち足りた事実
もしかしたら愛は目に見えない方が格好イイ、目に見えないからこそ愛なのだという考えもあるかもしれない。あえて見せない愛、見せられない愛、相手が気づかない愛、与えている自分自身ですら愛によるものだと気づいていない場合もあるだろう。
だけど、私自身がその溢れ出すほどの完璧な愛情表現に心が満ち足りたのは事実であり、愛というものを意識することによって、幸せや嬉しいというポジティブで豊かな感情に自然と誘導されることが多くなった。
きっと産声をあげてから今まで、家族や友人、大切な人たちからもらった愛によって私のアイデンティティが形成され、無意識に蓄積されていたものが、カナダで経験したわかりやすい愛情表現によって意識的となり、今溢れ出しているのだと思う。
見えない愛、知らない愛で街は溢れている。だから全面に出していこう
もちろん色んな人がいる。一見冷たくて相手のことを考えずに怒っているように見える人でも、よく知っていけば相手を想っているし、見えない愛が、知らない愛が、街中の人中に溢れているのだろう。そうあるべきだし、そうあって欲しい。
「あの人は絶対に愛なんて知らない」みたいに見える人だったとしても、きっとそれは愛を忘れてしまっているだけだと思う。
だからこそやっぱり、全面的に出していこうよ。
今はまだ日本人にとって、一見異常なカナダの愛情表現が好きであり、必要である。愛があるなら隠さなくていい、見せた方がみんなもっと幸せだろう。
なんて願いながら、この複雑ばかりの世の中でもっと複雑な愛について考える時間もまた、私を豊かで愛を与えることができる人間へと成長させていく大切なひと時なのである。