荷物を減らそうとする度に生き延びる、救急箱の中の消しゴム達

今よりもずぅっと小さかった頃、私は野菜やお菓子、動物の形をした小さな消しゴムを集めるのが好きだった。お医者さんごっこで使う救急箱の中に沢山詰められたそれは、本来そこに収まっていたオモチャの注射や聴診器を追い出して、今も尚そこにある。

荷物を整理して物を減らそうという試みは何度もあって、その度に生き延びてきた消しゴム達だ。面構えが違う――なんてことはないが、それでも特別長生きしている存在であることは間違いない。
ずっと捨てられないまま、ここまできた。そしてきっと、これからも捨てられない。

ちなみにこれ、子供向けの消しゴムと侮るなかれ。
見た目はポップで可愛らしく、ホールケーキの上に乗った苺が取り外せたりする。バラバラにしてまた組み立てるのも楽しく、だからこそ簡単でシンプルな造りのコップより、ヒレや色の違う本体部分を取り外せるマンボウの方を好んでいた。複数の消しゴムを全部解体して、わざと混ぜて、その中から元の形を組み立てる、なんてことも時々していた。
勿論傷が付かないように気を付けてはいたが、そこは幼い人間のすること。オレンジのヘタやプリンアラモードのホイップに、隠しきれない傷みはある。ちょっと残念だが、仕方の無いことだ。

使い辛さや本来の使用目的は二の次。コレクションすることが目的

そうして消しゴムに夢中になっていた私が、ねり消しなる物に辿り着くのは当然の帰結だっただろう。折良く「ねり消しの造り方」なんて記事が載った本を読んだ私は、一瞬にして憧れの存在となったそれをどうにか手に入れようと画策した。
素敵な香りがしたり、格別に柔らかかったり、磁石にくっついたりするものなんてもう最高。だが私の知っている店に望みの品は置かれていなかったし、実際、私がそれを初めて手にしたのは割と後の話だ。

何かの拍子に親が与えてくれた、なんの変哲もない白いねり消し。私は勿体無いと思いつつもそれをほんの少しだけ、本当に少しだけ千切り、文字をぎゅっと押さえつけたり、上で転がしてみたりした。
これで本当に消えるのかという興味もあったのだ。とはいえ、文字を消すのは想定よりも大分大変だったし、正直これを日常的に使うのは目茶苦茶不便だな、とは思った。
ほんの好奇心から、苺の消しゴムを本来の使い方で擦ってみた時と同じだ。鉛筆の線が汚らしく伸びて赤い果実が黒ずんだだけで、碌に消せやしなかった。
でも別に、それで良いのだ。私は日常使いがしたいが為に消しゴムやねり消しを求めていたのではない。コレクションすることが目的だ。使い辛いとか、本来の使用目的とか、そんなの二の次、三の次だ。だってこんなにも心が躍るのだから。

懐かしくて、少し寂しい。夢中で集めた思い出が詰まる、あの箱

正直な所、この消しゴムやねり消しが本来の使われ方をすることはきっと二度と無い。見て楽しむだけのインテリアとしての役目も、全然果たせていない。中学に上がって救急箱を開く機会は減り、高校の間なんて思い出すことも稀だった。社会人となった今は言わずもがな、あれは押入れの奥に仕舞われているだけの思い出に過ぎない。

けれど、赤と白に塗り分けられた救急箱の中。古びてゆくばかりのブドウやお茶を見ると、メダルを手にゲームセンターで遊んでいた頃を思い出す。優しくて輝かしいばかりではなかったけれど、それでも楽しくて、夢中になって集めていた幼い自分の心を覚えている。
懐かしくて、少し寂しい。きっとずっと、私はあの箱に詰まった思い出達を捨てられないのだろう。