私は文章を書くことがとても苦手だ。
SNSのような短い文を考えてツイートすることは苦にならないが、まとまった正式な文章のような形で書こうとすると必ず手が止まってしまう。
なぜ、SNSのような短い文は苦にならず、正式な文章の形では苦に感じてしまうのだろうか。この場をお借りして、自分の気持ちに素直に向き直ってみようと思う。

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SNSのツイートはとても楽だ。
なぜなら、自分のイマの気持ちを率直に書くだけだからである。
何の目的もなく、脈絡もなく、文体も関係ない。
そのときに自分が感じたこと、思ったこと、考えたことを即座に書く。
私は複数のアカウントを持っているが、日常用のいわゆるリアル垢の方で今日もとあるツイートをした。
「ここ最近ずっと寒い。はやく春が来てくれ」
私は面倒なことがとても嫌いな性格のため、この気楽さと特に何も考える必要はないこの怠惰さが私の性に合っている気がする。

一方、正式な文章はどうだろうか。
私がまず初めに思うことはとても面倒くさい。
そして、堅苦しい、やりたくない、考えたくない。
このような有様である。

正式な文章というのは、たいてい型があり、決められたルールがあり、特に何も考えてこなかったような内容までも書かされるときがある。
文章自体が全体的にかしこまった印象になるため、楽しい出来事を書く内容だったとしても、私自身その楽しさを文章の中で上手く表現することができているのか、自信はほとんどない。
正直なところ、イマのこのエッセイを綴っているときも自信がない……。

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楽しかった出来事や思い出を書く機会はこれまでにもたくさんあったが、正式な文章で初めて書いたことがあるのは、小学6年生のときに書いた卒業文集ではなかっただろうか。

私は小学6年生のとき、修学旅行で栃木県の日光市に行ったことがある。
卒業文集には、そこで体験した日光彫が一番楽しかった思い出であると書かれていた。
実際にその卒業文集を読んでみると、思っていたよりも私がそのときに感じた素直な気持ちが綴られていて、驚いた。

私は、この卒業文集を読み返すまで忘れていたが、小学4年生のときに彫刻刀で人差し指を切ったことがあったようである。
図工の時間に使った彫刻刀と日光彫体験で使った彫刻刀が似ており、最初は怖かったと書かれていた。
全体を一通り読んでみると、卒業文集といえども、私自身がそのときに感じた素直な気持ちがしっかりと盛り込まれていたことに気づかされた。

卒業文集という形であったからこそできたことなのかもしれないが、普段から自分の気持ちを素直に文章にして上手く表すことはやはり難しいことだと考える。
そのような難しいことを小学6年生の私はすでにやってのけていたことに驚き、「私ってすごいじゃん!」と、率直に思ってしまった。

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私が今でも文章を書くことが苦手なのは、自分が感じた気持ちを率直に書くことが難しいからなのではないかと考え始めている。
硬い文章を書かなければならない程、扱う言葉も難しくなり、気持ちの表現の仕方は単調になる気がする。

その中でも上手い表現を学んで使っていくことは大切なことなのかもしれないが、私は文章を自由奔放に書きたい気持ちがあるため、やはり、SNSのような何にもとらわれないあの場所でつぶやくことが好きなのかもしれないと再認識させられた。

文章を自由に書きたい!ルールがなんだ!!言葉がなんだ!!!

常識の範囲内であれば、自分に素直に、自由に、言葉を書き散らしていきたいという内なる欲望が私の中にずっと在り続けている気がする。
私はやはり、正式な文章のような形は嫌いだ。
SNSのような短い文章を書き散らしていく方が性に合っているとつくづく感じる。