私の大好きな人は死にました。
正確にいうと、ずっと昔に亡くなっています。ですから、「死にました」という表現はおかしいのかもしれませんが、とにかく私の大好きな人は故人です。

私の大好きな彼は1948年(昭和23年)の6月13日に、愛人と入水心中して死にました。彼のかねてからの望みである「死ぬ」ということが見事かなったのですから、私にとってそれは喜ばしいことでもあり、同時に憎らしいことでもあります。
ここまでで大半の方は予想がついたと思うのですが、そのご予想どおり、私の愛する生涯の推しは、太宰治です。

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私が太宰治作品と出会ったのは、実は最近で、21歳頃のことです。
その頃の私は、社会人2年目で、社会とはどういうものなのか日々考えあぐねていたり、信頼できる人間とはこうも少ないものなのかとうら寂しい心持ちでいたりしました。大げさに言うと、人生に対する無為感や、社会の大人たちに対する不信感が募っていたのかもしれません。そんな時に出会ったのが、太宰治の「人間失格」でした。

私はもともと明治時代頃の作家さんの小説を読むことが好きで、それまでも夏目漱石や森鴎外、田山花袋など、有名どころをぽつぽつと読んでいました。その中でも特に夏目漱石を気に入って読んでいて、その文章の美しさや如実な情景描写に心踊らされ、ドキドキしながら文庫本のページをめくっていたのを覚えています。

しかし、太宰治は、また違う角度から私を魅了し、ページを読み進めるごとに私は彼に恋心にも似た感情を抱いていきました。彼の作品にここまで心酔してしまったのは、彼の心の繊細さや、女性の心を洗い出すかのような文章が理由にあるような気がしています。
しかし、明確にはわかりません。この明確にはわからないというところも彼を好きなままでいられる理由のうちの一つなのかなとも思っています。

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どうしても彼に近づきたくて私が行っている推し活は、彼の作品を何度も読むことと、彼の聖地を巡礼すること、そして彼のお墓参りをすることです。

一つ目の彼の作品を何度も読むことについてですが、これは文芸作品が好きな方なら誰しもが一度は経験することだと思います。その日の自分のメンタルの状態や、その時自分が置かれてる状況によってその作品の見え方が変わってくると言いますか、彼が語り掛けてくれている内容が変わっていくように感じるのです。彼は現世には存在しない故人ですが、私に最も寄り添ってくれる他人といっても過言ではないでしょう。

二つ目の聖地巡礼についても、オタク活動の経験をしたことがある方は共感していただけるのではないでしょうか。彼が生きた道、彼がいた場所、彼が死を思った場所、そのすべてを自分の目で確かめたいのです。

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とは言っても、彼が生活していた過去と私が生活している現在では、見えている景色も全く違うのだろうな、とも思います。でも、それでもいいのです。彼が過去に歩いたであろう道、彼が住んでいたという場所、今は全く異なってしまったその場所で彼に対して想いを馳せるのが今の私にできる精一杯の彼への思慕の表現なのです。

三つ目のお墓参りについては、推しが故人であることの最たる特徴かな、と思っています。私はどうしても理解できないことが起きた日や、気分が沈んだ日に彼に、彼の眠るお墓に行き、彼に会いに行きます。

彼のお墓のちょうど目の前には森鴎外のお墓があります。私はそれに背を向けることに若干の畏怖を感じながらも、彼のお墓に手を合わせます。そうして帰りの電車では彼の作品を読みます。そうすると、心が晴れるのです。

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このように、私は推しについて語ると、若干変態じみた、あまり友達には理解してもらえないような言動をとってしまいます。だから私は私のこの秘めたる推し活をこのエッセイに閉じ込めます。
どうかこの恋文じみたエッセイが彼に届きますように。