卵焼きでよく交わされる議論。
「甘い」派か、「しょっぱい」派か。
この2択で言うと、私は甘い派だ。これでもかと言うほどに砂糖を入れた卵焼きが大好きだ。
ちなみに夫は、しょっぱい派らしい。食の好みはそんなに分かれないほうだけれど、どうやらこれだけは相容れないようだ。

ただ、これはあくまでオーソドックスな2択での話。
私が一番好きなのは、砂糖たっぷりの甘い卵焼きではない。

母が作った、チーズ入りの卵焼きだ。

◎          ◎

高校生の頃、母が作ってくれるお弁当には卵焼きがよく入っていた。
シンプルな甘めの卵焼きのときもあれば、アレンジバージョンの卵焼きのときもあった。中でも私は、チーズ入りのものがたまらなく好きだった。

「好きな食べ物は何?」と聞かれたら、私は開口一番「チーズ」と答える。昔から全く変わっていない。
お弁当のフタを開け、卵焼きの断面を一目見た瞬間わかる。ほんのりクリーム色がかった、やさしいまだら模様。チーズ入り卵焼きがお弁当に入っている日は、まるで星座占いで1位になったような気分だった。「今日はいい日だな」なんて思いながら、うきうきした心持ちで箸を手に取る。

こってりとまろやかなチーズの風味は、卵との相性がとてもいい。卵の主張が少ないからこそ、口内ではチーズの濃厚さが本領発揮。何度食べてもおいしい。チーズが固まりきらずに、ほんの少しとろっとしているのもたまらない。卵焼きランキングだけでなく、母の手料理ランキングでも堂々の1位だった。

ちなみに妹は、母の作るチーズ入り卵焼きがそんなに好きではなかったらしい。「普通の卵焼きの方がいいのにな」とこっそり口にしていた。あんなにおいしいのに、と私は首を捻ったものだった。

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ひとり暮らしを始めてからは、自分でも何度か卵焼きを作ろうとしてみたことがあった。
でも、フライパンに溶き卵を広げ、少し熱が通ったらくるくると巻き出すところで大抵しくじる。成功したのは数えるほどしかない。オーソドックスな卵焼きでこの有り様なのに、中に具材を入れたアレンジバージョンの卵焼きは私にとって至難の業だった。

ぐずぐずに崩れた卵焼きを、泣く泣く食卓に出したこともあった。夫は「おいしいよ」と何でもないように言ってくれたけれど、私はむすっとしたままだった。おいしければいいもんじゃない。卵焼きは、もっと美しくなければ駄目だ。

卵焼きの作り方、お母さんに聞いておけばよかったな。
そんな小さな後悔が、胸の内でふつふつと静かに燻った。
聞きたくても、もう聞くことはできない。
母が私の夢枕に立つか、私があの世に行くかしない限り。

しかも母は、卵焼き専用の四角いフライパンではなく、ごくごく普通の丸いフライパンでいつも卵焼きを作っていた。そして、いつだってそれは崩れていなくて、美しかった。

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「あいつは料理が駄目だ」「惣菜をパックに入れたまま、皿に移さずに食卓に出すなんて考えられない」と、父はよく呆れ口調で母のことを蔑んでいた。確かに母は、スーパーで買った出来合いの惣菜をよく夕飯に出していた。お弁当も、割合的には冷凍食品の方が多かった。

でも、だから何だと言うのだろう。毎日家族全員分の食事を用意することは、少なからず手間がかかる。今の私は夫婦2人分だけでひいひい言っているのに、母はその倍の4人分の用意をしていたのだ。母の日々の苦労が、今になってわかる。大変だからこそ、ちょっとずつ手を抜かなければやってられないときだってある。

もしかしたら父は、母が作ったチーズ入り卵焼きを食べたことがないんじゃないだろうか。あれは、母が毎回お弁当のおかず用に作ってくれていたものだ。
雑だ何だと愚痴を言っていた父は、きっと失念している。でも私は、確信している。母が、丸いフライパンでも美しい卵焼きを作れる理由。

それは、手先が器用だからだ。
母は被服系の学校を出ていて、裁縫がとても得意だった。その細やかさは裁縫に限らず、日常の中のあらゆる場面で感じられた。父の言うように、母には確かに大雑把な部分があったかもしれない。でも、同時に母はとても几帳面な人でもあった。

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父と母は長い間仲が悪くて別居もしていたけれど、母が亡くなって以来、父の態度は少し変わった。
昔撮った写真を眺めたり、カセットテープに焼かれていたホームビデオをCDディスクにダビングして、その映像を私にLINEで送ってきたりする。そこには、よたよたとおぼつかない足取りで歩く私がいて、「あ、歩いた歩いた」と懐かしい母の声も聞こえた。

母の死は大きな喪失感をもたらしたけれど、幸か不幸か、遺された家族の輪はどこか色濃くなったような気がする。
寂しさが、人と人を繋ぐのかもしれない。

「ビデオ、もの凄い数があるんだよ。今後観に来いよ」

先日、父にそう言われた。「ひとりは寂しいから遊びに来て」と素直に言えばいいのに、とも思うものの、心の中に留めておく。逆の立場だったら、きっと私だって素直には言えないだろう。家族って、多分そういうものだ。

でも、今度父に会ったときには聞いてみよう。そして自慢してみよう。
「お母さんが作った、チーズ入りの卵焼きって食べたことある?あれ、すっごくおいしいんだよ」と。