淡いピンクのワンピースからは折れそうなくらいに細い足首がのぞいて、艶やかな黒髪が風に揺れる。私のイメージする女の子はこんな感じだ。以前は私もこんな女性に憧れていた。だけど、どうやらそれは刹那的な憧れに過ぎなかったようだ。今の私はと言えば、黒いパーカーにフレアパンツ。厚底のスニーカーに黒のバッグで武装している。憧れは腹筋の割れた、金髪の似合う推しだ。

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こんな自分をよく思わない人もいる。田舎の親とか、そのへんにいる男性とか。彼らは決まって、そんなのは女性らしくないと言い切る。鬱陶しいものだ。
私は今の自分を気に入っている。いろいろなことを一緒に乗り越えたこの体を、心を愛しているからだ。ナルシストとかではなく、自己を受け入れて生きている。

見た目だけではない。年上の人に対しても、間違いや理不尽なことを見つければ指摘する。怒るのではなく、あくまで静かに主張のみを展開する。余計な感情はそこに要らない。自分がまだ若い女だからと舐めてかかられることは多いけれど、この性格を知ると面倒な大人も黙る。

強いね、年上に見えた。こんな言葉をよくかけられる。それが褒め言葉かどうかはさておき、私にはピッタリな言葉だと思う。私は精神的に強くなること、同世代より年上の考えをすることを常に意識してきたから。それは家庭環境含め余計な苦労のせいでもあるが、それもまた私の人生。

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早いものでもう就職を考える時期になった。周りでは、早く結婚して夫に甘えたいと言う女子もいる。家事を妻に任せたいという男子もいる。彼らを否定はしないが、私はどうやら少数派のようだ。働くこと、家事をすること、両方とも他人に預けたくない。自分のことは自分で面倒を見たいのだ。強くてかっこいいを目指していたというより、自然とこうなった。異性に振り回されて、人生をめちゃくちゃにされるより、効率的で無駄のない一人を満喫したい。こういうところが可愛いくないと言われる所以だろう。面倒くさい。

そりゃあ私にも、異性に(あわよくば好きな人に)可愛いと言ってもらいたいなんて欲求に飲まれたこともある。だが、容姿のコンプレックスが増しただけだった。私にとってスカートやヒールは自分は都合の良い存在だと自分から主張する材料になった。体目的で言い寄られたり、ブサイクという言葉を投げつけられたりした。そんな異性の評価に振り回されるより、ここまで生きてきた自分を褒めてあげたい。自分で自分を毛布で包めるような存在でありたい。

あれは無駄な時間ではなかったと信じているが、苦い思い出であることは確かだ。そこからは強く強く、もっと強くと生きている。

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この間不妊に関わる病気が発覚して落ち込んだときも、強くてかっこいいあなたになるんでしょ?と自分を鼓舞した。子供を望まない私にとってもこれはかなりのショックで、割とへこんだ。こんなにも自分が弱いなんて、久々に体感した。けれど、弱いところも含めて、今の自分を愛している。ひとまず投薬治療をするとして、無理に子供を望む必要はないと自分の中で納得した。子供を望まないからといって、私の価値は変わらない。私は私。一頃に比べて、ずいぶん強かになったものだ。

だが、現代日本ではこのような女は疎まれやすい。結婚して子供を産んで、キャリアは後回し。それが美徳とされるのはいまだに変わらない。反対する女性の声は幹部の中年男性にかき消される、そんな光景はいやと言うほど見た。いつか、キャリアを優先する女性が、かっこいいではなく当たり前の存在として扱われるよう願って、このエッセイを終わりにしたい。