幼稚園や小学生の頃、「憧れの人は?」という質問を大人たちからよく投げかけられた。
安易に「お母さん!」と回答する“子どもとして正解な回答“ができず、「憧れの人は?」と聞かれる誕生日会や道徳の授業がニガテだった。
その質問をされた際は、モジモジしてなんとかその場をやり過ごしていた。

幼稚園や小学生の時に好きだった男の子たちの共通点は「その子のお母さんがカッコいい」ということ。
赤いオープンカーに乗っていたり、オーシャンビューの家に住んでいたりと、ゴージャスでカッコいいお母さんの息子だったから彼らのことが好きだった。
回りくどくなってしまったが、当時の私の憧れの人は自分の母ではなく、よその「ゴージャスでカッコいいお母さん」だったのだ。

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その「ゴージャスでカッコいいお母さん」たちは、お金持ちの旦那さんをゲットした幸運の持ち主と周りから見られやすいのだが、幼い時に苦労をしてきたからなのか思慮深く、しなやかさのある自分軸を持っている人たちであるように私には感じた。

かくいう私の母はバブル時代を謳歌した人で、当時はゴージャスだったのかもしれないが、家庭を持ってからは「自分より大切な子どもができたから」と、質素な生活を好んでいたので「ゴージャス」ではなかった。
そういった背景から、「ゴージャスでカッコいいお母さんがいる男の子が好き→結婚すれば私の義母さんになる」という、飛躍しすぎな連想ゲームのもと、彼らのことが好きだったのだろう。
とても小賢しいというか浅はかというか......。
とにもかくにも恥ずかしいが、「ゴージャスでカッコいいお母さん」という存在が幼稚園や小学生の時の私にとっては「憧れのロールモデル(お手本となる人)」だったように思う。

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現在の私は「ゴージャスでカッコいいお母さん」になっているどころか旦那候補もいない、プラプラしている26歳。
今すぐにその目標にはたどり着けないし、自覚があるほど自分がまだ幼稚すぎるので、もう少し大人の素養を身に付けてから彼氏を作りたいと思っている昨今だ。

そんな中、「ゴージャス」ではなく「ナチュラル」だが「カッコいいお母さん」であり、大人の素養を持ち合わせた女性のロールモデルを20代後半になってようやく発見した。
その方はCさん、私が月に一度「先週は頑張ったから!」と自分を甘やかすために少し奮発するべく足を運ぶカフェのオーナーの奥さんだ。

3人のお子さんを育てながら、カフェでもテキパキと仕事をこなし、笑顔もキラキラしていて可愛らしい方だと常々思っていた。
彼女の生い立ちを知ることになったのは、そのカフェのオーナーである旦那さんのインスタグラムでの投稿だった。

Cさんは幼い時に児童養護施設で育ち、その後も山あり谷ありだったよう。
そんなCさんの今を作り上げた背景がつづられたブログも拝読した。
若い時に想像を超える苦労をたくさんされてきたからこそ、「淡々としている日常にこそ幸せを感じられる」のだなと思いを馳せながら、Cさんのキラキラした笑顔が脳裏に浮かんだ。

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Cさんの生い立ちをまだ知らなかった頃のこと。
初めてカフェに訪れた私は、そこで提供されるカフェラテを退店時に興奮気味にベタ褒めして帰ったことがある。

それから2ヶ月経過して久しぶりに来店した時のこと。
Cさんは常連さんを迎えるような「あっ!」というキラキラした笑顔で出迎えてくれた。
すっかりCさんのファンになっていた私は、Cさんが覚えてくれていたら嬉しいなと思い、承認欲求から2ヶ月前と同じ白いブラウスを着て来店していたので、そのCさんの表情が嬉しくてたまらなかった。
「もしかして、私のこと覚えててくださったんですか!?」と興奮気味に話す私にCさんは、「当たり前やないですか〜!前回来てくださった時に、カフェラテのこと褒めてくださったの、嬉しかったんですよ!」と、キラキラした笑顔でそう話してくれた。

私が本心から伝えた言葉がCさんの胸に響いていたことも嬉しかったのだが、嬉しい言葉を投げかけられた時に、しっかりとキャッチできるCさんのような女性になれたら、もっと多くの幸せを感じることができるのではなかろうかと思えた。

私もCさんのように「淡々としている日常にこそ幸せを感じられる」大人の素養を持ち合わせた女性になり、日々の小さな気づきや喜びに目を向けて幸せを感じていきたい。