私が持っている疾患の1つ、パーソナリティ障がい。主に幼少期の親からの愛情表現が足りなかったことにより発症すると言われている。

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私は幼少期からよく祖父母と一緒に過ごしていた。長期休みなんかはほぼ毎日いた。自由だし、なにを話しても聞いてくれて返事ももちろんある。3人で旅行したこともあった。
両親とも旅行はあったが、家での会話があった記憶はあまりないのだ。むしろ、叱られている記憶や、もっといい成績も取れなんて言われていた記憶の方が多いのだ。

そんな中、私は小学校高学年からイジメにあうようになった。学年が上がるにつれエスカレートしていき、中学1年の夏休みから不登校になった。不登校になる前は担任の先生や部活の顧問に相談していたけれど、助けてはくれなかった。

むしろ、気休めの言葉だったり、意見を否定されることもあった。それから半年以上不登校になり、なんとしてでも学校に行かせたい母は暴言、暴力を振るうようになった。父は聞かないふりばかり、むしろ放置されていた。当時の私にはどこにも味方がいなかった。

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幸い共働きだったので、両親が帰宅するまでは自由であった。
不登校中、唯一心の支えになったのは好きなアイドルのライブDVDや映画やドラマを観ることだった。その世界観に魅了されていた。
両親が帰宅すると、自分の部屋に逃げて、何も音が聞こえないように息をひそめていた。

中学2年から母が見つけてきたフリースクールに入り、私立の高校、大学へ進学し、アルバイトを始めた。私の世界は広がった。
ただ、母の行動はエスカレートしていった。学校面では1日の出来事を話さないと機嫌が悪くなるから、それは私の義務となり、さらにはお友達選別が始まった。

アルバイトの面では、どんな人と働いているのか見に来るようになり、どんなお客様がいるのか詮索するようになった。ようはとてつもなく、過干渉なのだ。
そんな状況から逃げる1歩として、私は夜勤を始めることにした。そうすることで、親と会わなくてよくて、話さなくてもいい生活をし始めた。

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貯金をして、大学3年から1人暮らしを始めた。けれど、ほぼ毎日のようにくるLINEや電話。月に2回ほど送られてくる荷物たち。全部が重くなって、心が病んでいった。
耐えられなくなった私は、なにも言わず、誰にも見つからない場所へ逃げた。

そんな私からのお願い。
これから親になる人、すでに親である人へ。
小さい頃はたくさんハグやキスをして、甘えてくるうちは、甘えさせてあげてください。そのうち勝手に離れていくから。親が思っているより、子どもは子どもなりに考えて、勝手に成長していきます。だから、「もう○○歳なんだから」とか「私たちの頃は」なんて考えはどこかへ飛ばしてください。

親としてのネジが外れない程度に見守って、お友達のように包みこんであげてください。子ども中心にならず、親も1人の人間です。自分の時間、奥さんや旦那さんとの時間を大事に取ってください。子どもの前でも存分にイチャイチャしてください。子どもはそんなとこまで見ています。お手本になれとは言わないけれど、誰よりも距離が近いからこその行動を見せて、接してあげてください。