買い物へ行こうと思っても、しばらく車を走らせないとスーパーに辿り着けない。
家の周りは、基本的に畑と田んぼ。
前後左右どこに目を向けても、視界の奥には青々とした山が映り込む。

私自身は遭遇したことがなかったものの、時々クマやタヌキも出没するらしい。
野生のキジは、何度も見かけた。オスとメスで全く異なる体の色がいつも不思議で、カラフルなオスのキジを目撃したときは「今日は何か良いことがありそう」とほんのり嬉しい気持ちになった。

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これらは全て、私の故郷の話。要するに、とんでもなく田舎だった。
「自然豊か」といえば聞こえはいいものの、ただひたすらに何もないだけの町だと、私は幼少期からずっと思っていた。

特に私が生まれ育った地域は、町の中でもかなり過疎化が進んでいる場所だった。人口減少の影響により、小学校高学年の頃はクラス分けすら廃止され、同級生全員が1つの教室に収まってしまうほどだった。

そんな場所で幼少期を過ごしてきたせいか、都会への憧れをいつからか強く抱くようになった。「将来は田舎に住みたい?都会に住みたい?」と聞かれたときは、迷うことなく「都会」と答えた。交通の便が良くて、買い物にも困らなくて、おしゃれで綺麗なマンションの高層階で暮らしてみたいと、中高生の頃の私は漠然と夢見ていた。

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私が最初に都会と密に関わることになったのは、高校を卒業した後だった。
実家から電車を乗り継ぎ、約2時間かけて短大に通学する生活が始まった。そこは、東京都内有数の都市・渋谷だった。
テレビで天気予報が流れるたび、いの一番にスクランブル交差点が中継で映し出されるその街は、田舎民の私にとっては東京の象徴のような場所だった。

いわゆる「おのぼりさんあるある」かもしれないが、東京の人はとにかく歩くスピードが速いと思った。特に、上述のスクランブル交差点や駅の構内などは四方八方から大勢の人が歩いてくるため、スピードの波に上手く乗っていないとしょっちゅうぶつかりそうになった。

元々、人混みはあまり得意なほうではない。全身がぐったりと疲れてしまう。
これは関係があるのかどうかよく分からないが、混雑している場所に行くと、子どもの頃はよく目が真っ赤に充血したことがあった。

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それでも私は、渋谷の雑踏に少しずつ不思議な心地良さを覚えるようになっていった。
数え切れないほどの人々が街を行き交い、自分もその中のひとりとして埋もれていく。当然、誰も私のことなんて見ていない。

自分がとてもちっぽけな存在であること、ひいては自分の悩みなんていうものはさらにちっぽけなものであることを静かに悟らせる力が、渋谷の街にはあると思った。

ちっぽけすぎて、自分という人間が徐々に世界から掻き消されていくような感覚。当時の私は自分のことが大嫌いだったせいか、その半透明じみた感覚が想像以上に身体に馴染んだ。
このまま渋谷の雑踏の中に溶けて消えてしまっても、それこそ誰にも気付かれなさそうだな。そんなことをぼんやりと考えていた。

言うまでもないことだが、どれだけ混雑していようともそこに人を溶かし殺す作用はなく、あれからも私は淡々と生き続け、今日に至る。地元はとうに離れ、今は東京で暮らしている。

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ただ、幼い頃の夢を叶えたのかというとそうでもない。
駅は近いが、はっきり言うと買い物するには少々困るような場所だ。東京は車がなくても十分生活できるとよく聞くが、それはいわゆる都心のような「都会」の話。都心から遠く離れた郊外は、たとえ同じ東京でも「都会」とは言えない。特に今住んでいる街は、東京とは到底思えないほどにのんびりとした空気が漂っている。むしろどちらかと言えば、私の故郷に近いものがある。

不便だな、とは思うものの、現状に特別な不満は抱いていない。
一時は滅多に地元に寄りつかない期間がしばらく続いたが、ここ1年くらいはコンスタントに帰省している。いつ帰っても、そこは昔と変わることなくひっそりとしている。お盆や年始など、夫も一緒の時は「本当に静かな町だね」と隣でいつもぼそっと呟かれる。

けれど、子どもから大人になった今は、そんな故郷の風景が素直に愛おしいと思える。
きっと、東京という別の土地の空気に触れてきたからこそ、故郷の良さに今になって気付くことができた。渋谷の雑踏に心地良さを覚えた瞬間は確かにあったが、あの頃の私は単に現実逃避がしたかっただけなのだと思う。

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今も時々仕事や所用で渋谷に足を運ぶことはあるが、やっぱり私には少し刺激が強い場所だなと感じる。きっと、この感覚の方が私にとっての正解なのだろう。
視界の中に山が全く入ってこない風景は、何だか心許なさがある。ましてや怪獣みたいな高層ビルに囲まれている場所は、そこにただ居るだけで頭がくらくらしてくる。渋谷は特に再開発が進んでいるらしく、私が学生だった頃とは景色が全く違う。その変化のスピードにも、そこはかとない恐ろしさを感じてしまう。かの故郷は、何年経ってもほとんど変わることがないというのに。そこに私は安心感を覚える。

だからこそ、東京だけどどこか故郷の面影もある今住む街は、私にとってとてもちょうどいいのかもしれない。
東京の片隅で闘い続け、そして時折故郷に帰る。
そんな今の生活が、私はかなり気に入っている。