最初に、このエッセイを書くことで失うものもあるかもしれない。私がきっと誰にも言わずに生きてきたこと。でも、ずっと誰かに知ってほしかった。私という人間がこれまで生きて生きて生きてきたことを。

これまで何本か私は「かがみよかがみ」に投稿している。その中で家族にまつわるエッセイも書いた。そこに書かれていることも嘘ではない。けれどたくさんの言葉、思い、出来事を押し込んだ、人に見せられる、見せるための自分の言葉だったのかもしれない。決して嘘ではないのだけれど。

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私が小学校一年生の時に母は身体の激痛と闘うようになった。それは後に「線維筋痛症」という診断がつくことになる。完全な治療方法は現在になった今でもまだない。ただ身体の激痛だけが母を襲う。

もちろん仕事はできなくなり毎日家に居る母。生活保護を受給した。母子家庭で鍵っ子だった私は鍵を持たずに家を出ることが当たり前になった。

そしてもう一つ当たり前になったこと。「お母さんを支えてあげてね」元々母子家庭だったことでそういう雰囲気はあったが、いつからか大人は私と会話する時に必ずそれを言うようになっていた。母をサポートする娘の私というポジションでしか誰も私のことを見てくれなくなった。私という人生がどこかで消えた。

買い物の荷物、他、重さが少しでもある物は私が運ぶことが当たり前だった。

それでも私が唯一やらなかったのは家事だ。働けないという人間としての自尊心が削られてしまった母から家事を奪ったら、今度は母親という自尊心まで失ってしまう。しかも家ではほぼ寝たきりでリハビリもしない。ここで私が家事に手を出してしまったら母は戻ってこれないところまで行ってしまうと思ったのだ。

母は身体の痛みでうまく寝付けないことが当たり前となり、痛み止めと睡眠薬を服薬していた。強い薬を飲まないと身体に効果が無いと、強く多くの薬を飲んでいた。

そのツケが全て私の義務教育生活に重くのしかかった。睡眠薬でほぼ泥酔のような状態になる母は深夜に御手洗に起きると、色んな粗相を起こすようになった。しかし母には記憶が無い。新品のトイレットペーパーのまま便器に落とされていることは可愛いもの。なぜか、トイレットペーパーカバーや他の物が便器に落とされていることもあれば、別のところで用を足してしまうこともあった。

義務教育の年齢でここまでやらなきゃいけなかったのはショックだった。自分の中で大きな何かが崩れた音がした。あの日を私は死ぬまで忘れないと思う。しかも、母は痛みで眠れない他、対人関係や更年期突入で過剰に抑鬱になることがあった。

だから私は母が寝たのを確認したら刃物を隠すということを行っていたこともある。

だから私は今でも誰かと同じ部屋で眠る時には、人の動きですぐに起きてしまうような体質になってしまった。

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私は何度も何度も母に「お願いだから薬を見直して」と頼んだ。母は私の声を何度も流して煙草に逃げた。そして毎晩私は母の介護、後始末をした。それどころか日常でも母は私を見ているようで見ていない、そんなギクシャクした親子関係だった。

けれど、外面を気にする母は表面では私をすごく想いやっているようにする、そして私も仲のいい親子を演じる。

そんな生活が何年続いたか分からない。やっと母に私の声が届いて、本当に少しだけ薬の見直しがされた。だけど、身に染み付いてしまった習慣は私から離れなくなっていた。薬の見直しがされてからも数は少なくなったものの母が粗相をすることはあったし、買い物の荷物持ちに始まり精神面のサポートまでと、結局、実家を正式に出る二十ニ歳まで当たり前に介護生活をしていたんだと今は思う。

実家を離れたら万事解決かと言うと、ヤングケアラーはそうはいかない。実家を出てからも、役所関係の手続きや病院の送迎など物理的距離があったとしても介護は続いている。母にいつなんどき何があってもいいように、できるだけいつでも動けるように、労働環境は週五日の正社員は当然難しい。

私が家を出てから不自由さを感じるようになった母を説得し、障害者福祉の在宅サービスや在宅医療も利用するようになった。

最近は約二十年ほど自宅で引きこもり寝たきり生活をしていた母に気持ちの変化があり、就労支援も受けるようになった。母は「毎日外に出るのって気分が違うね!」とポジティブに話をしてくれ、娘としては良かったなと思う。

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介護と私の関係はこれまでもこれからも続く。

ヤングケアラーではなくなる時なんてないのだ。これから先、これまでやってこれたとはいえ、何年先なのか、すぐなのかも分からないけれど、今までとは訳が違う「老い」という未知の介護生活が待っている。私は不安の気持ちでいっぱいだ。

ただ、これまでの介護は誰にも言えなかった。というか聞いてくれる人なんて居なかったが正しいのだけれど。時が経って今やっとヤングケアラーに少しづつスポットが当たり始めて、当事者同士の集まりもできて、過去のことを人に話せるようになった。これから先の介護は経験している人が沢山居る。きっと共有、共感できる人にも出会うんじゃないかって思うと、少しホッとする。

これまで言えなかった、言ってはいけなかった介護から言える介護へ。これまでやってこれたんだから大丈夫、なんて言えないけれど、なんとかやっていけると信じている。