私は現在、父親と実家で二人暮らしをしている。定年退職が近づいてきた父親だが、正直私からすると、私が幼い頃の父親と、そこまで変わった感じはしていない。変わるというのはつまり、加齢に伴うマイナスの変化のことだ。

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普段、写真もそこまで撮らないから、視覚的に比較できるものがあまりない、というのも理由の一つにはあると思う。そして、実際そこまで変化がない、というのもまた理由としてある。老けたな、と感じることはほとんどない。

そんな印象とは裏腹に、父親と話していると、たまに介護についての話題が出てくることがある。介護、という単語は出てこない。でも、内容はそのことなのである。

痴呆になり、私の名前をずっと呼んで、全部の世話をしてもらわざるをえない状況になるかもしれない、そんなことを言ってくるのだ。介護である。介護以外の何物でもない。

そう言われた時、あまり気が進まないな、と思った。当然、それを口に出して言うことはしていないし、流すかのように適当に相槌を打った。だから、それ以上そのことについて会話は展開しない。いつもそうである。

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気が進まない、などというのは、今まで私が父親にしてもらったことを考えれば、ありえない言葉ではある。なんなら、してもらった、と過去形で書いてはみたものの、現在進行形で、父親にしてもらっていることというのは多くある。

家事に限らず、金銭面でもそうであるし、全体的にいつも助けてもらっている。

父親の存在が、私にとってマイナスに作用することはまずないのだ。いつだって味方でいてくれる、様々な面で。

話は少し脱線したが、介護を積極的にやりたい、などと言う人はそもそもいない気がする。やっている人は多くいても、それはそうせざるをえない状況にいるからだろう。

私が父親を介護する、それは未来に起こりうる可能性のある物事の一つとして、確かに存在する。それをわかっているから、父親はたまにその話題を出すのだ。

絶対に起こり得ない、そうは言い切れないとわかっているから。持病もないし、今は元気そのものだ。ただ、それは今の話であって、先のことは誰にも分からない。そして、私が父親より先に亡くなる、という場合を除けば、私が父親の介護をするのは必然であるから。私は一人っ子なので、他に面倒を見る人もいない。

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その話をする時の父親は、決まってふざけている。面白おかしく笑いながら、話している。その姿に、私もつられて笑ってしまう。正直、笑うような内容ではないのだが。

私の父親のことだから、私の性格を理解した上で、敢えてそうしているのだろう。

深刻に、真剣に話されるよりも、そうやって冗談半分に話される方が、逆にリアルだったりする。私がそう感じることをわかっているから。

考えるよりも即行動派の私にとって、深刻に話されることで、面倒くささが勝らないよう、真正面ではなくひねりを加えて、思考する機会を与えてくれているのかもしれない。

実際、真面目に何度も話されるより、少しふざけた感じで、忘れた頃に話題を出される方が、脳の奥深くには定着する気がする。あくまで私の場合だが。

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父親が話題に出さなければ、私は介護のことなど全く考えないだろう。やってみてだめだったら考える、というスタンスで生きているからだ。でも介護に関してはそのスタンスでは厳しい部分はきっと大きい。

そう思うと、私はまだまだ介護について考えることは出来ていない。いつか介護をする日が来るのかもしれない、その程度だ。

でも、全く考えることすらしないことと、ほんの触りでもいいから考えてみるということでは、全く違うのだ。介護というものが、自分の未来に存在するかもしれない、と頭の片隅にあるだけでも少しは違う。何が違うのかと問われたら、答えることは出来ないが。

父親なりに考える機会を与えてくれた今、私自身ももう少し距離を詰めて介護について考えていく必要があるのかもしれない。