卒業アルバムを見返すと、あの頃の懐かしい自分がいる。小中高の卒業アルバムには、当時の自分と対話できる宝物が散りばめられていると思う。特に授業中の瞬間や遠足や修学旅行などの写真からは、あの時自分は何を考えていて何に興味を持っていたのかが鮮明によみがえってくる。
普段は滅多に見返すことのない卒業アルバムであるけれど、松任谷由実さんの「卒業写真」を聴くと急いでアルバムを手に取りたくなる。
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写真は、景色だけでなくそのときの心情までをも忠実に映し出すことができるからこそ、一年後、二年後、さらに十年後という時を経ても、「あの頃の自分」に戻る魔法があるのだ。
時を超えてアルバムを見返すという距離感には、美しいと思わせるショット以外にも「あの人は元気なのだろうか。」と懐かしい人物に会いたくなってくるのだ。これこそが、写真にしかない力であり、アルバムに映っている人との距離感を縮めたり遠ざけたりもできるわけである。不思議なようで、青春時代の写真の素晴らしさを凝縮させたのがアルバムなのだ。
実際に卒業アルバムには、少し退屈そうにして授業を受けている自分の姿や、カメラの存在を気にせずにバレーボールに打ち込んでいた体育での場面などが刻まれている。そんな写真からは当時の「声」や「体育館のざわめき」が再生されていくようで、人生に行き詰った時の助けになるのかもしれないとも感じたりする。
このように写真との距離感は、人それぞれであるけれど、現在・過去・未来の「私」との対話を映し出すことは写真にしかない力なのだ。
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この先を想像できる写真といえば、やはり幼少期から現在に近い中高時代のアルバムであるはずだ。私は幼稚園の頃、楽しみにしていた餅つき大会で体調を崩してしまい、準備しかできなかった。だけど、先生が卒園アルバムのための集合写真だけでも撮っておいたほうがいいと張り切っていたので、それに応じて私は写真の輪に詰め寄った。
なぜ、ここまで鮮明に幼稚園児の頃の記憶があるのだろうか。それは写真のおかげであると私は信じている。卒園アルバムを引っ張り出してその写真にたどり着いたとき、その時感じたことやハプニングが蘇ってきたのだ。
もし、あの時写真に写ってなかったら、私の脳内で餅つき大会での思い出は再生されていなかったかもしれない。そう思うと、写真が映し出す風景や出来事は何十年経っても生き生きとしていて、色褪せないものなのだ。
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現在はSNSの普及によって、写真を投稿するということが身近になっている。スマホの写真で十分なこの世の中で、ずっしりと重みのあるアルバムを残すことは億劫に思われるのかもしれない。
しかし、その重みから今まで生きてきた自分の歩みを振り返りながら、その時代で生きてきた自分にしかわからない物語が刻まれていくからこそ、アルバムは宝物ということに変わりない。
人生の重みをアルバムから感じ取るということは、これから出会う大切な人との時間を刻むヒントになるとも思う。写真以外にも人生の歩みを記録できる方法がありふれている令和の時代に、アルバムを好むことはとても素敵なことである。
現在21歳の私にとって、その21という歳月には重みを感じながらも、この先待ち受けている人生の門出に期待したいと思っている。それは、今までアルバムのなかで刻まれた環境や表情から現在地から未来へ飛び立つ道筋が描かれていたからである。
自分にしかないドラマを紡いでいく写真を、これからも大事に温めたいと思わせるのは有名なカメラマンではなく、私の一番近くにいた家族や、友人、学校の友達だった。そのことに気付かせてくれたのは、家の奥にある戸棚で眠っている青春そのもののようなアルバムたちである。