直感が働くことは何だか特別な能力だと思っていた。選ばれし人が生まれ持つもののように思っていたので、私には無縁だと思っていた。でも、そうではないことを友人に気付かされる出来事があった。

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SNSを通じて、私はある人に出会った。お互いの顔や名前は知っていて、1ヶ月半ほどチャットで連絡をとり、電話もした。その出会いはマッチングアプリではなかったが、相手の男性は年齢は5歳ほど上で、会話も楽しく続いていたので、私はその人のことが気になっていた。

初めて対面で話してみも、スマホ越しの言葉や声から受けた優しい印象そのままだった。集合はAM11:00、解散はPM5:30。初めましてにしては、少々長時間ではあったものの楽しい時間だった。LINEも交換し、また会えたらいいなとも思った。

ちょっとしたモヤモヤをかかえながらも。

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次の日、昔からの友人でもある職場の同僚を誘い、一緒にランチを食べた。その同僚には事前に、その男性と会うことを伝えていたので、いざ報告会である。会話の流れは、
友人:「で、どうだった?」
私:「楽しかったよ!緊張もしなかったし、普段通りの感じで話せた!」
友人:「よかったじゃん!」
私:「でもね…」

そこからは、どうしても心に引っかかりを感じた具体的なエピソードを打ち明けた。それを聞いた友人は私にこう言った。「もうすでに違和感、感じてるじゃん」と。

後だじじゃんけんのようだが、実は会う前のその男性とのチャットからも「自分とは合わないかもしれない」という感覚は数回あった。しかし、勝手に作り上げてしまった理想とも相まって、その違和感から目を背けていた。

その男性と会う前から感じていた違和感。それが実際に直接会ったことで、さらに膨らんでいったのだ。

実は、私が出会ったその男性は、生まれも育ちも日本ではないため、文化や考え方に違いがあるのは間違いではないはず。それでも、友人のそのひとことで、この違和感を無視してはいけないということにようやく気づけた。

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そして私は、また別の課題にぶち当たった。「この違和感は『違い』としてそのまま受け入れるべきなのかどうか」と。

生まれ育った国も違えば、環境も違う。たとえ、同じ日本に生まれていても、ひとりひとり個性があり、価値観もそれぞれ。みんながみんな同じ価値観を持てる訳ではないのだから、違いも受け入れていかないと、男女問わず、人は心から人を愛することはできないのではないだろうか。

そんなある意味、究極ともいえる問いを頭の中でぐるぐるさせ、しまいには「もしかしたら、私の経験値が浅いからではないか?」と考え出し、他の先輩にも尋ねてみることにした。正解のない答え合わせのようであったが、聞いてくれた人は全員、私と同じ感覚だったので間違ってはないと少し安心した。

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しかしそこからは、誰にも答えを委ねずに自分ひとりで、これからどうしたいのかを考える必要があった。また会ってみたいという気持ちは残っていたからだ。決して悪い人でもなかった。

その男性からのLINEには必ず、“クエスチョンマーク”がついていたので、こちらでキリよく終わらせられるようなタイミングも、相手で終わることもなかった。私の感じていたモヤモヤの正体を「違和感」と気づかせてくれた友人も、「じゃあ、どうしたいの?」と意見をいうことなく、ただただ私に問いかけてくれた。

「このLINEも、それによって残り続ける好意も、私で決着をつけなければ切れることはないし、次に進むこともできない」そんなふうに自分の中の答えが見えた瞬間が来た時、私はクエスチョンマーク付きのLINEに返信することなく、そっとそのトークルームを閉じた。

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そして今、私は前を向いている。それは、あの日感じた違和感に向き合ったことで、自分の中で大切にしたい価値観に気付けたから。自分からその人との縁を切るという決断をしたことで、大切なものを守ることができたからだと思う。

ここから得た学び。それは、なんとなく感じた否定的な直感(違和感)を感じたら、まずは、そっと立ち止まる勇気が私にはこれからも必要だということ。

例えば、恋愛に盲目になっている自分に気づいたら、「じゃあ、私はどうしたいの?」と自分自身で問いかけなければならない。その違和感を受け入れられずにどうしても引っかかるなら、それはきっと自分が大切にしたいものや価値観から離れてしまいそうな状態だから。

自分の直感とは、誰の価値観にも意見にも左右されない、心の声でもある。たとえみんながイエスと言ったとしても、自分の心がノーと叫ぶなら、それに蓋をしてはいけないのだ。自分の直感を信じて、進んで、時には立ち止まったり、軌道修正してみたり。それを繰り返していくことが、自分の人生を生きること、そのものになるかもしれない。