「カモ子は世界の主人公じゃないんだよ」

「何がきっかけで、そんなに視野が広くなったんですか」と聞かれたとき、ふと思い出した父の言葉である。
現在では、世界には様々な人がいて個々が異なる考えや思想を持っていることを知っている。そして、それらの考えや思想が自身と異なっていたとしても、決して間違いではないと知っている。

「私はいつも、人と会話するときに、その人がどんな人生を歩みどんな背景を持っていてその人なりの考えを持っているのかを考えています。だから、自分の考えと異なるものでも拒絶せずに一度受け入れます。異なる視点で物事を考えたり、異なる視点を知ろうとする姿勢を私は大切にしています

知り合いの社会人の方に対して、こんなような話をした時、冒頭部分の質問をいただいた。

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自分でも驚くのだが、幼少期の私にとっては自身の目に見えるものが全てで、この世界が自分の為にあると思いながら「世界の主人公が自分」という思想を持つなかなかに高慢ちきな子供だった。

最近、小学生時代から付き合いがある幼馴染と会って話をした時なんかも「カモ子ちゃん、トゲが抜けて、本当に丸くなったよね」としみじみと言われ、「私、本当に、なんてヤバい子だったんだ……」と少し悲しくなると同時に「成長したってことだよね!」とちょっぴり嬉しくなった。

どういう場面で言われたのか、はっきりとは覚えていない。
しかし、ある日父に「カモ子は世界の主人公じゃないんだよ」と言われ、子供ながらにその言葉を妙に意識したことを覚えている。当時は、「そうなの!?え、どういうこと…!?」と全くその意味を理解できていなかった。しかし、その言葉は種のようなもので、私が気づかない内に芽吹き、私の中で徐々に育っていったんじゃないかと確信している。

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中学生になったあたりから、「世界」を意識し始めた。
世界には紛争や貧困といった問題が所々に蔓延っていて、私はそれに目を向け始めた。そこから視野は一気に広がり、私が今見ている景色とは別の景色を見ている人、異なる空を見ている人がいるのだと知った。

高校時代は、「何故、グローバル化している社会の中において、自身が関わる人々がアイデンティティとして持つ歴史や文化を学び尊重しようとする空気が薄いんだろうか」という疑問意識をずっと持っていた。

「文化摩擦」という言葉があるけれど、文化が違うから摩擦が生じるんじゃない。互いの文化を受け入れようとしない意識があるから摩擦が生じるんじゃないかと私は思っている。もしかしたら、私が思っている以上に多くの人が「世界の主人公は自分」だと思っているのかもしれない。そして、それも決して間違いではない。

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私はこの世界の主人公ではないし、誰もが「世界の主人公」になることはできないんじゃないかと思っている。一方で、誰もが「自分の人生の主人公」にはなることができるとも思っている。

「こいつは、何を言っているのか分からん」と言われてしまうかもしれないけど、最近、「自分の人生の主人公になる」ということが「自分好きになること」と同義なんじゃないかって気づいた。私にとっては、自分を好きになるってめちゃくちゃ難しいこと。だけど、自分を好きになるために沢山の努力をすることは、私が私らしい人生を歩むことに繋がるし、私を「自分の人生の主人公にする」ってことにも繋がるのではなかろうか。

十数年前に父から貰った言葉が、今も私に影響を与え続けている。時々、予想だにしないプレゼントを私の思考回路に運んできてくれる。

「カモ子は世界の主人公じゃないんだよ」という言葉、一見否定的に感じるこの言葉が私の視界を広げてきたし、これからも広げ続けるんだなぁ。