「理解はできないけれど、受け入れる」。つるんとしたゆで卵のようなこの言葉を、私は梨木香歩さんの『春になったらを摘みに』というエッセイで知った。静かな湖畔を連想させる、しかし鋭さを孕んだエピソードが詰まった、大好きなエッセイ集だ。

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つい去年のこと、私は暗雲がたちこめるような不安を抱えながら、就職活動をしていた。先を見通せない不安だけではなく、コロナ禍で奪われた大学生活の青春を取り戻せないことも後悔していた。なぜ、思い切り遊びに全振りせず、過ごしてしまったのか。勇気を出せなかった、中途半端な自分にも嫌気がさしていたように思う。

そんな鬱屈した思いを溜めたゆえか、夏頃、私は体調を崩して摂食障害という病にかかり、人生初の入院をするために大学を休学することとなった。真面目で優等生という、定規で直線を引いたようにストレートな人生を歩んできた私にとって、大学での休学は、小石につまずいて、思いがけない大怪我をしてしまった、という感覚に近かった。

頑張ってきた就職活動は全てダメになり、一から振り出しに戻ってしまったのだった。

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また同時に、この病になってから、周囲の理解を得られにくい、ということを痛感するようになった。自分にとっての「当たり前」は、まるで外国語のように通じない。体重を戻すため頑張る意志はあるのに、体重の増加が好ましくない。自分でも治りたいのかどうか、迷ってしまう。

回復のために一人前の食事を摂るけれども、それは幽霊船をさまようような恐怖と闘っている感覚に似ている。例えば、おやつの時間に、カフェオレを飲むことすら恐ろしいのだ。

普通に飲んだり食べたりすること、こんな形で向き合うことになるなんて……。昔の自分には、考えられなかったことである。ましてや、当事者でない家族や友人に不思議がられるのは、もっともだろう。

ここで思い出されるのは、冒頭で挙げた梨木さんの言葉である。エッセイでは、筆者の下宿先の主人であウェスト夫人が、宗教や慣習の違いを超えて、相手を尊重する姿勢(理解はできないけれど、受け入れる)が紹介されている。

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この姿勢は、雨滴が葉先を揺らすように、柔らかで穏やかではないか。

現在、多文化共生やLGBTQへの理解が叫ばれている。一方で、LGBTQを公表しているタレントを故意に使うテレビ番組などを観ると、歩み寄ってあげている、理解してやろうではないか、というマジョリティの侵略のような強さを感じるときがある。

別に歩み寄って「あげる」必要はない。「ああ、あなたはそういう考え方なのね、私はそれを尊重するし、近寄る気はない」のように、フランクな姿勢で良いのだと思う。私も周囲の理解は求めていないけれど、パズルの一ピースが置かれるように、そっと尊重してほしいという思いがある。

同時に、この姿勢は私の世界を大きく広げてくれるものだ。これを知ってから、目を丸くするような異文化や、知人の癖や考え方などに出会ったときに、それを「拒絶」して扉を閉じてしまうのではなく、小鳥が舞い込んでくるように、常に扉を開くことができるようになったからだ。

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マイノリティとしての気持ちが分かる現在だからこそ、「理解はできないが、受け入れる」大切さをに沁みて感じている。

「やあ、お茶をどうぞ」
「話していかない?」

そんな気軽さで、セクシャリティーや相手の考え方、気持ちなどを捉えていけばいい。そうしてゆけば、誰もが平穏な心地を抱き、肩の荷をおろして、すっと楽に生きられるのではないだろうか。