私のお守りは、祖母が縫ってくれた刺繍入りのハンカチである。

受験のとき、ピアノの発表会のとき、初デートのとき、このハンカチを持っていて成功したから、今では験担ぎのつもりで、ここぞという時にはポケットにしのばせておく。

ガーゼのハンカチの端には、ごく控えめに風車とチューリップがほどこされている。昔は千人針といって、戦地に赴く兵隊さんのために、多くの女性の手で一枚の布に玉どめをして、それを腹巻にすることで銃弾を避けるお守りとしたらしい。人の手でひと針ずつ願いを込めて縫われたものには、ご利益がありそうだ。

小学生のときにもらったもので、もう二十年以上、何度も洗濯して生地はくたくたになっており、糸の色も褪せているが、そこがかえって愛おしくて手放す気にはなれない。

一度、大学受験で泊まったホテルに忘れてしまい、運の尽きかと思ったが、何とホテルの方が見つけて自宅まで郵送してくれた。そのまま捨てられても仕方ないようなボロボロのハンカチだったのに、私のところに舞い戻ってくれた。それも含めてあのハンカチには「何かある」という感じがしたものだ(ちなみに受験には無事合格した)。

◎          ◎

祖母は裁縫が得意な人だった。私が隣で見ていると、「ちょっと針に糸、通してくれるかね? おばあちゃん、もうよく見えなくてね」と頼んだ。私がやってあげると、「器用だねぇ。きっと将来、お裁縫が得意になるよ」と、これしきのことで大げさにほめてくれた。

あの頃は得意になっていたけれど、今から思えば、祖母は退屈そうにしている私にも出来そうな仕事を与えてくれていたのだと思う(あんなに器用に刺繍をしていた祖母が、針に糸を通せなかったとは思えない)。例えば、文化祭の準備をしているときなど、クラスになじめず隅っこでどうしていいか分からず壁の花になっている子には、何か単純作業を割り振ってあげるのが優しさであるのと同じように。

祖母が針仕事の最中、ときどき針の先を髪になすりつけていたのもよく覚えている。不思議そうに見ている私に、「こうすると針のすべりがよくなるのよ」と言っていた。

祖母は私の浴衣も縫ってくれた。七五三のときには本格的に小紋も縫ってくれた。さすがに捨てるのが忍びないが、かといって、このままとっておいても箪笥の肥やしになるだけである。

ならいっそ、帯にリフォームしてはどうかと思い立った(私はたまに着物を着る機会があるのだ)。ところが、そのお直しの料金の高さに目が飛び出そうになった。これなら帯を一本新調できる。

渋っている私に母が言った。「それはとてもいいお金の遣い方だと思うよ。そういうのは無駄遣いでも道楽でもないんだよ」――母のよいところは、こういうとき、私の気持ちを盛り立てるようなことを言ってくれるところだ。例えば、デパートで服を買って、ちょっと高かったかなと後悔しているときなど、「それいいじゃん。よく似合う」と、こちらの気分を浮き立たせるようなことを言ってくれる。

母のこの一言が後押ししてくれて、着物は帯に生まれ変わった。

◎          ◎

出来上がった帯を和室の畳に広げると、梅の花が散った、一筋の絹の川が流れた。そして、そこに祖母の面影が立ったような気がした。

控えめなのにいつもころころ笑っていた、上品な祖母が。

祖母は、桜の花より梅の花が好きだった。華やかな桜の方が好きだった私は、今まで祖母の感覚が分からなかった。けれど、最近になって、梅の良さが分かるようになってきた。冬のおわり、まだ寒い時期にいち早く咲く梅。派手さはないけれど、控えめに良い香りを放つ。この帯を締めるたび、祖母が近くで見守ってくれているように感じるのだ。