目覚めると、カーペットには何かがたくさん落ちていた。一瞬で眠気が飛び、「何これ!?」と叫びながら飛び起きた。すると恋人が驚き、固まっていた。手にはグラノーラの袋。落ちていたのはグラノーラだった。

私はグラノーラを拾い、勿体無いので口に放り込みつつ、カーペットにコロコロをかけた。本来なら、掃除機をかけた方が良いが、早朝すぎた上に、そんな元気がなかった。コロコロをかけながら、「何?この状態?信じられないんだけど?何があったの?」と矢継ぎ早に聞いた。

恋人は空腹で目が覚めた。でも自分の家ではないので台所の勝手がわからず調理はできない。そこでグラノーラを見つけた。グラノーラを手に布団の脇に戻り、袋に手を突っ込み、ボリボリと食べ始めた。寝ぼけていたので、自覚なくポロポロとこぼしていた。そこで私が目覚めた、という顛末だった。

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グラノーラって袋に手を突っ込み、鷲掴みで食べるような代物じゃない。ポテチじゃないのだから。そしてグラノーラはボリボリ貪るほど安いものじゃないから、味わって食べてほしい。安ければ貪って良いのかと言われたら、そうではないのだが。ツッコミどころが貧乏くさくて申し訳ない。

しかし、こう振り返ると、私はグラノーラをこぼしていることに対しては怒っていない。こぼしたのはわざとではないし、掃除すればそれで済む話だからだ。それなのに、そんなに怒らなくていいのではというほど、反射的に怒っていた。実際、私が怒りすぎて、恋人は途中から逆ギレ気味だった。

大したことじゃないのに、なぜこんなに怒ってしまったのか。それは、自分がそうされてきたからである。私の父は怒りっぽい人だった。もし私が父の前で同じことをしたら、タダでは済まない。私は人でも殺したのかというくらい、怒鳴られ、罵倒されただろう。極端な表現と思われるかもしれないが、そのくらい父は怒りっぽく口汚いのだ。

ちなみに小さい時は身体的暴力もあった。小さい子供にとって大人、しかも男性からの暴力というものは生死に関わる。そうして命の危険を感じていた私にとって、父の怒りと死の恐怖はセットになり、やがて父の存在そのものが恐怖となった。

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父への恐怖が限界突破した私は、物理的に距離を取ることにした。時勢と周囲の協力で、幸いにも逃げることができた。そして、今までの人生はなんだったのだ、もっと早く離れればよかったというほど穏やかな時間が増えた。

しかし、それと同時に、どんなに離れても、逃げても、逃げきれないと感じる。なぜなら父は自分の中にいる。親しい人への接し方が父のようだったり、未だに自分の判断基準が父の怒りに触れるか否かだったりと、心理的に距離を取ることが難しいのだ。

このままでは、いずれ恋人も私の元から去ってしまうだろう。それは嫌だ。なにより恋人を傷つけたくない。よく自分がどうされたかったかを考え、そのように他者に接するようにしようと言われるかもしれないが、そんなことわからない。

親しい間柄でのコミュニケーションが怒り怒られという型しか知らないのだから。しかし、それを仕方がないとするのは私にのみ通用することで、私が接する人は私の生育環境など知ったこっちゃないし、巻き込まれる理由もないのだ。

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私がどうしたい、どうありたいなど、すぐ見つかりそうにない。それだけ傷つきが深いのだろう。しかし、それを理由に他者を傷つけたくない。それで孤独にもなりたくない。そこで一旦、王道のセオリーに頼ろうと思う。いわゆるアンガーマネジメントの手法だ。

怒りそうになったら、反射的に対応せず、6秒待つ。世の中の大抵の出来事は一呼吸を置いてから対処しても差し支えないはずだ。私の生活空間にもう父はいないのだから、6秒待っていても怒られたりはしない。ゆっくりでいい。自分のあり方を探すのも、今からでも遅くないはずだ。