私は子どもの頃、冗談があまり通じない人だった。

とにかく真面目に生きていた子ども時代。先生に言われたことは守り、校則も守る。小学生の時の、午後の授業がない日には、夕方まで自宅にいること、という謎のルールがあった。それすらも疑問に思わず、自宅にいたくらい真面目だった。言われたことをその通りに行動する私。真面目過ぎて、友人から遊びに誘われることはほとんどなく、遊びたいときは必ず自分で許可を取らなければいけないほど、周囲からは興味のない存在だっただろう。

◎          ◎ 

渋々でも仲間に入れてくれた当時のクラスメイトには、感謝しなければいけないくらいなのかもしれない。こんな生真面目な子どもは、きっと私くらいしかいない。そう思うほどに堅物だった。そのため、友達付き合いで生まれる冗談への耐性がなかった。冗談でもとある男子と女子が付き合っていると言われたら信じてしまう。顔を見て、嘘っぽい顔をしていても、文章として受け取ると文字通り受け取れてしまうので、嘘が見抜けない。そんな子どもだった。

一方で、コミュニケーションが完全に取れなかったわけではない。会話は成立するので、言葉のキャッチボールは行える。おそらくどこかですれ違いを起こしながらではあるけれど。話をしていくうちに、私の素が姿をす。友人と、想像で話が膨らむことがあると、理想を語っていたはずが急に現実的なことを言い出すのだ。話が冷める。自分でもわかった。しかし、口に出してからしまったと思うには時間がかかるので、しらけた空気を察知してから自分のした過ちに気づくのだ。現実的なこと、正論、ルールでは違反だとか、そんな類の大前提を言い放ってしまう。余計なことを言ってしまうとわかっていても、話が盛り上がり、私もヒートアップしていると、考える余地をなくしている。

◎          ◎ 

「それはそうなんだけどさ」や「正論言わないでよ」と笑い飛ばしてくれたらありがたいほうだ。こいつとは話が通じない、と思われて、距離を取られてもおかしくないくらいに論破してしまう。こちらとしても、申し訳ない気持ちが勝るので、とりとめのないような負のオーラをまとって気配を消す。話に参加して悪かった、と自己嫌悪に陥るくらいだ。もちろん、そのあとの話は続かない。気まずい雰囲気のまま時間がすぎて、気づけば話し相手は違う人と話している。これが常だ。

誤解しないでほしいのは、私がものすごい正義感を持っているからではないこと。この世の中を是正しなければ、と思うほど強い正義は持っていない。冗談は楽しみたいと思っている。しかし、どうしても子どもの頃は特に、正論を突きつけてしまう。現実的に物事を考えてしまう。いいところなのだろうが、ここばかりは状況を考えてほしいものだ。気がつくのは、だいたいい終えてから。論破してしらけた雰囲気になるか、大人に論破され返して自分が言い返せなくなるかのどちらか。

◎          ◎ 

その後の反省として、これから発言する内容を、一旦考えるようになった。それはそれで会話のテンポが遅いので、話についていけなくなる。話しても大丈夫だと判断し、話を始めようとするときには、すでに違う話題で賑わっている。こうして沈黙の私が出来上がる。身体が勝手に動くときを反省すると、何もできなくなっているのだ。

大人になって、ようやく冗談も楽しめるようになってきた。会話の中であることないことを言い合えるようになった。こうして話がはずんでいるときはとても楽しい。やはり、正論や現実的な思考は、ときにやりにくさを感じてしまう。今でも出てきてしまうときはあるものの、結構頻度は減ったのではないかと思う。これからは、会話についていきながらも冗談を楽しめる人になりたい。そんな器用な人になれたら、きっと人生は楽しくなるだろう。誰かと話すことも、きっと楽しいと感じるだろう。