私は子どもの頃、冗談があまり通じない人だった。
とにかく真面目に生きていた子ども時代。先生に言われたことは守り、校則も守る。小学生の時の、午後の授業がない日には、夕方まで自宅にいること、という謎のルールがあった。それすらも疑問に思わず、自宅にいたくらい真面目だった。言われたことをその通りに行動する私。真面目過ぎて、友人から遊びに誘われることはほとんどなく、遊びたいときは必ず自分で許可を取らなければいけないほどで、周囲からは興味のない存在だっただろう。
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渋々でも仲間に入れてくれた当時のクラスメイトには、感謝しなければいけないくらいなのかもしれない。こんな生真面目な子どもは、きっと私くらいしかいない。そう思うほどに堅物だった。そのため、友達付き合いで生まれる冗談への耐性がなかった。冗談でも、とある男子と女子が付き合っていると言われたら信じてしまう。顔を見て、嘘っぽい顔をしていても、文章として受け取ると文字通り受け取れてしまうので、嘘が見抜けない。そんな子どもだった。
一方で、コミュニケーションが完全に取れなかったわけではない。会話は成立するので、言葉のキャッチボールは行える。おそらくどこかですれ違いを起こしながらではあるけれど。話をしていくうちに、私の素が姿を現す。友人と、想像で話が膨らむことがあると、理想を語っていたはずが急に現実的なことを言い出すのだ。話が冷める。自分でもわかった。しかし、口に出してから「しまった」と思うには時間がかかるので、しらけた空気を察知してから自分のした過ちに気づくのだ。現実的なこと、正論、ルールでは違反だとか、そんな類の大前提を言い放ってしまう。余計なことを言ってしまうとわかっていても、話が盛り上がり、私もヒートアップしていると、考える余地をなくしている。
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「それはそうなんだけどさ」や「正論言わないでよ」と笑い飛ばしてくれたらありがたいほうだ。こいつとは話が通じない、と思われて、距離を取られてもおかしくないくらいに論破してしまう。こちらとしても、申し訳ない気持ちが勝るので、とりとめのないような負のオーラをまとって気配を消す。話に参加して悪かった、と自己嫌悪に陥るくらいだ。もちろん、そのあとの話は続かない。気まずい雰囲気のまま時間がすぎて、気づけば話し相手は違う人と話している。これが常だ。
誤解しないでほしいのは、私がものすごい正義感を持っているからではないこと。この世の中を是正しなければ、と思うほど強い正義は持っていない。冗談は楽しみたいと思っている。しかし、どうしても子どもの頃は特に、正論を突きつけてしまう。現実的に物事を考えてしまう。いいところなのだろうが、ここばかりは状況を考えてほしいものだ。気がつくのは、だいたい言い終えてから。論破してしらけた雰囲気になるか、大人に論破され返して自分が言い返せなくなるかのどちらか。
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その後の反省として、これから発言する内容を、一旦考えるようになった。それはそれで会話のテンポが遅いので、話についていけなくなる。話しても大丈夫だと判断し、話を始めようとするときには、すでに違う話題で賑わっている。こうして沈黙の私が出来上がる。身体が勝手に動くときを反省すると、何もできなくなっているのだ。
大人になって、ようやく冗談も楽しめるようになってきた。会話の中であることないことを言い合えるようになった。こうして話がはずんでいるときはとても楽しい。やはり、正論や現実的な思考は、ときにやりにくさを感じてしまう。今でも出てきてしまうときはあるものの、結構頻度は減ったのではないかと思う。これからは、会話についていきながらも冗談を楽しめる人になりたい。そんな器用な人になれたら、きっと人生は楽しくなるだろう。誰かと話すことも、きっと楽しいと感じるだろう。