父は暴力的な人だ。父からされたことを専門家に話したら、経済的虐待以外はコンプリートしていることを知った。経済的虐待を受けていないのか、私が認識できていないだけなのかは分からない。自分が育った環境がろくでもないということを受け入れるのは時間がかかる。正直、今も何かの勘違いではないかと思う時がある。その時は、何かニアピン賞とかもらえないかなと思って、精神的ダメージを受けないように現実逃避していた。専門家は続けて、母にも支援が必要なので、母からアクションがあった場合はいつでも対応すると言った。私にはそれが解せなかった。
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どちらかというと私より母の方が父親からの被害を受けていた。モラハラだ。なにより私はそれを見ているのが辛かった。母は天然で空気を読むのが苦手で、1から10まで言われても理解が難しい面があった。一方、父は短気で、1を言って10を理解しろと言わんばかりの人間だった。そんな母が父に叱られないように、父の意図を汲み、母に声がけをする、それが私だった。何十年と連れ添っているのに理解力が育たない母も母だし、伝わるように伝える努力をしない父も父だったと思う。育ったのは私の異常に空気を読み、周囲に気を配る力だけだった。
私が高校生の時、父の癇癪がひどかった。ある時、エンジンのついた車の中で些細なことでブチギレた。ハンドルを握った状態で暴れ、車全体を揺さぶった。停車中ではあったものの、少し操作をしたらすぐ発車できる状態だったので、このままアクセルを全開にして暴走するのではないかという恐怖があった。車のハンドルを握っているのは命を握っているということでもある。運転手が癇癪を起こしていて、率直に命の危機を感じた。父に殺されるという恐怖が刷り込まれた出来事だった。父への恐怖感から精神的に不調となり、高校生活にも支障をきたした。そのことで先生と面談をした。何を話したのか全く覚えていないが、「でも、あなたは優しいから、お母さんを置いて逃げられないでしょうね」と言われたことを強烈に覚えている。私がいなくなったら母がもっと父に叱られる、私がなんとかしなくてはという気持ちがあったのだろう。実際、私が母を置いて逃げるまで、そこから十年以上かかった。
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母を置いて逃げた私は、父のことを話す機会が増えた。ある時、ひとしきり父について吐き出した後、母への怒りに気がついた。母はなんであんな父のもとで私を育て続けたのだろうという怒りだった。高校生の時、母に「なんであんな人と結婚したの?」と泣きながら聞いたことがある。母は口ごもり、答えは返ってこなかった。子は親を選べないし、親も子を選べない。でも、配偶者は選べる。配偶者は唯一、選べる家族だ。私が逃げる段になって母と色々話したが、父の加害を母が認識していないわけではなかった。だが、母には恐怖感が欠落していた。母自身がそう言っていた。それが生まれつきなのか、そうならないと生きてこられなかったからなのかは分からない。そのおかげで母は父と共に過ごせているし、そのせいで私は今も精神的な不調を抱えている。母は父からのDV被害者であるが、私にとっては不適切な環境で私を育て続けた加害者だ。
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母を一方的に責めてはいるが、現実的に子連れ離婚が難しい世の中であることはわかっている。でも冒頭の専門家がしたように母が庇われると怒りが湧いてくる。その一方で、最近、母が父とずっと一緒にいる気持ちもわからなくもない。私には恋人がいる。初めてできた恋人だ。周囲に祝福されるかと思ったが、恋人の話をすると「なぜそんな人と付き合っているの?」、「ちゃんとした人と付き合わなきゃ」、「距離を置いたほうがいい」などと不評の嵐だ。でも一目惚れで、ゾッコンなのだ。ふと、今の私と同じように母も父にゾッコンなのではないかと思った。そう考えると、「マジ離れるとか無理だよね」と笑いあえるかもしれない。母を養育者と思えばなかなか気持ちが落ち着かない。でも時間が経てば、もしかしたら母とは良い友達になれるかもしれない。