私には、母親の記憶がほとんどない。幼い頃に両親が離婚し、母親の事が嫌いだった私は父親の元に身を置いた。父方の祖母も一緒だった為、祖母が私の母親代わりであった。
毎日の家事はもちろん、私の身の回りの事は全て祖母が面倒を見てくれていた。保育園に迎えに来てくれたり、学校関係の行事には全て参加してくれたりして、母親がいない寂しさを私に感じさせまいとすると同時に、世代の違う周りの子のお母さん達と、何とか頑張ってコミュニケーションをとってくれていた。
そんな風に母親代わりとして日々奮闘してくれていた祖母のお陰で、私は、母親がいないことへの引け目や悲しさを全く感じることなく楽しい毎日を送れていた。
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そもそも私は、母親と離れて以降、一度として母親に会いたいと思ったことがなかった。もともと、母親からあまり可愛がられておらず、寧ろ母親からストレスの捌け口にされることすらあったため、私にとって母親という存在は、ただただ嫌悪感を抱く恐怖の存在であった。未だに母親に会いたいと思うことはないし、そもそも日々の生活の中で彼女の存在を思い出すことは、まずない。誕生日も知らない、正しい名前の漢字表記すら知らない、そんな人。
どこに住んでいるのかも定かではない。何をしているのか、どんな状態でいるのか。誰と住んでいるのか、どんな人生を送ってきたのか。全くもって、何一つ知らない。私にとって母親は、完全なる赤の他人同然だ。
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本当に、人生を通して一貫して、私は母親には興味の欠片もない。ただ一つ、事実としてどうしても見過ごせないことがある。それは、私という存在をこの世に送り出してくれた人である、ということ。毎年自分の誕生日になると、私はどうしてもその事が頭によぎるのだ。
たくさんの仲間から「お誕生日おめでとう!!」と言ってもらえている時、この仲間たちに出会えたのも、こうして嬉しい言葉をもらえているのも、そしてそんな状況に幸せを感じられる心を持っているのも、全て、母親がいたからなのだと。母親がいたからこそ、私という存在を取り巻くあらゆる環境というものが存在しているのだと。その事を思うと、どうしても私は、母親という存在について想いを馳せずにはいられなくなる。
そして、顔も覚えていない母親である彼女に、自ずと感謝の気持ちが芽生えてくる。あまり可愛がってはもらえなかったけれど、彼女以上に祖母の方が母親役をしてくれたけれど、彼女に思い出も思い入れもろくにないけれど。それでもやはり、彼女がいなければ、私はこの世にはいなかったわけで。それを考えると、やはりどうしても、私は彼女に「ありがとう」と伝えたくなるのだ。直接伝えることなど到底出来ないので、心の中で、そっと想うだけだけれど。どうか、何らかの不思議な力で彼女に伝わってくれていたりしないだろうかと思ったりしながら。
そんな感じで、ほんのりと、年に一度だけ思い出す人。それが、私にとっての「母親」の存在である。
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今後も、恐らく会うことはないだろう。この先長いこと、顔を見ることも声を聞くこともないだろう。それで構わない。そうでない状況になることを望んでもいない。
ただいつか、母親がこの世から旅立つその時までに、「私をこの世に生まれさせてくれてありがとう」という言葉だけは、彼女の顔を見て直接伝えることが出来たら、と思っているのである。