実家から東京の自宅に帰ってくると、いの1番にスーツケースを開いて荷解きをする。すすけた、焦げっぽい匂いがする服と下着たちを早く救出しなければならないから。
帰省中に母が洗濯してくれた服は、ヤニで壁が黄ばんでいない私の部屋にきちんと置いておいたし、向こうで荷造りをしているときはくさくなかった。近くにいるうちに鼻が慣れてしまうのだろう。私は母に別れを告げたあと、時間差で母が吸うタバコの香りを嗅ぐことになる。1着1着、顔をうずめて確かめるたびに、その不思議さで笑ってしまった。
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子どものころ、母のことを恥ずかしい存在だと思っていた。幼稚園の参観日で、スラッとしたきれいな他の“お母さん”たちと並んだ母は、なんだか1人だけ顔のシワが多くて、口紅の色がおかしくて、着ている服も変で、浮いているように思えた。
私は3人兄弟の末っ子として生まれた。母は、20代で兄2人を産み、その10年後に私を産んだ。1番上の兄と私の干支は同じだ。
今でこそ30代後半で子どもを産むことの普通さは分かる。
しかし、あの当時のあの地方で、20人ほどのクラスの小さな世界しか知らない私にとって「自分の母親が他の母親より年を取っている」ことはとても許しがたいことのように思えた。
母と同じ「〇〇子」で終わる名前も嫌でたまらなかった。もっと、「レナ」とか、「ユナ」、みたいな名前をつけてくれればよかったのに、と恨んだ。当時住んでいた父の生家は雨漏りがひどいうえ毎晩天井裏ではねずみたちが大運動会を繰り広げていた。風呂は屋外にあって、薪をくべて沸かす。母の実家には給湯器があってシャワーもついているのに。そんな家に嫁いで専業主婦をしている母のことを、心底見下していた。
ーー私は母と真逆の人生を歩んでやる。大金持ちの人と結婚して、自分も稼いで、若くて可愛いお母さんになる。そんないっぱしの口を利く娘のことを、母は「ええんじゃない?」とガハハと笑い飛ばしては、タバコを吹かしながら手際よく夕食を作るのだった。
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母は、私に無いものをすべて持っている。そのことに気がついたのは大人になってからだった。母は老若男女、全人類からモテて、人付き合いが上手い。一方の娘はというと、友達も少なく恋人もおらず、上司や同僚と衝突して心が折れてはすぐ会社を辞める。「あの能力が遺伝してくれていたらなあ」と何度思ったことか。
帰省中、甥(孫)の小学校の運動会に一緒に参加したら、同級生の妹とおぼしき未就学児の女の子から「一緒にかくれんぼをしよう」とナンパされていた。
母は一度は了承したものの、帰宅時間が迫っており遊べなくなってしまったことを伝えると、少女の眉はハの字になりシバシバとまばたきをして切なそうな顔を見せた。すぐに母が「今度、〇〇(甥の名前)のお家においで。そのとき一緒に遊ぼうね」と言ったときの輝いた目を今でも忘れられない。
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あるとき、昼寝から目が覚めると、母が息を切らして玄関から入ってきたところだった。聞くと、中学生になる孫の同級生たちと庭でバスケをして遊んできたという。四捨五入すると70歳になる年齢になってもなお、ティーンたちと本気で遊ぶ母に対して尊敬よりも心配が勝った。
母は「じじばばが好き」とよく言う。急な大雨の中、スーパーからやむを得ず歩いて帰ろうとしていた80歳の女性に話し掛け、車で家まで送り届けたらしい。「恋が始まるやつだ」、と思った。
煙草をよく買いに行く近所のコンビニは、レジに並ぶだけで何も言わずにマイルドセブンが1箱差し出される。そのレジのお姉さんからは、バレンタインにハートの缶に入ったチョコをもらったそうだ。
誰に対しても明るくて、誰よりも頼りがいがある母の背中は、とてつもなく大きくてまぶしい。母がすでに2人の兄の子育てをしていた年齢である28歳で、私は父より少しだけ稼いでいる人と結婚した。私と母の電話をスピーカー状態で聞いていた夫から、「笑い方が同じ」と言われた。嬉しくはない。でも、嫌な気持ちはしなかった。
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スーツケースから救出した服たちは、ハンガーに掛けてしばらく部屋に干しておく。するとタバコの匂いは消え、大好きな柔軟剤の甘い香りへと変わる。
この香りを自宅でも再現したくて、実家と同じ銘柄の、ピンク色の花の香りがする柔軟剤を買った。でも母が洗った方がふんわり香るし肌触りもいい。やっぱり、母には敵わない。