私の名を呼ぶ叫び声。その後同じ音量で「死ねー!!」と続く。
声の主は父だ。呼ばれるのは私の弟の名前であることもあった。父がいるのはリビングか彼の自室で、両方とも1階なのだけれど、2階の私の部屋まで聞こえてくる。それほどまでに彼はしっかり叫んでいる。
朝、この声で目覚めることもよくあった。私にとってはそれが日常で、いちいち驚くことではなかった。
この「死ね」には、特に理由が無いことの方が多い。私や弟が何かしでかしたとか、そういう因果で叫んでいるわけではない。
「死ね」に限らず、父は家でよく叫ぶ。たまに外でも叫んでいる。叫びワードのなかの一つが「死ね」であるだけなのだ。
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突き詰めて考えれば、父が抱える日々の不満や、鬱屈とした気持ちが叫びたくなる衝動を呼んでいるんだと思う。その不満感に私や弟も携わっていないわけではないのだろう。そう考えると、「死ね」の矛先としては間違ってはいないのかもしれない。
けど、我々は度を超えてイヤな子供ではなかったはずだ。私も弟も高校大学ともに国公立だから特段学費が高かったということはないだろうし、暴れたり騒いだりするような反抗期はなかった。プラス要素もないけどマイナス要素もそれほどにはなかったと思う。
そんな風に考えながらも、もう日常になってしまっていたから、私も弟も言い返したりはしなかった。
そして去年の春、私は1人暮らしを始めた。「死ね」と言われることとはまた別の、父の行動が許せなくて家を出た。このことについては、以前投稿した「逃げる自由を得た大人の私が決断した一人暮らし。理由は『父の存在』」というエッセイのなかで書いている。
もう意味もなく「死ね」を乱発する人間からは逃れられた、と引っ越したばかりの頃の私は思っていた。
少し経つと、それが大きな勘違いであったことを思い知らされる。
自らのお給料で暮らす、狭いけれど自由なお城。ここにも無作為に「死ね」を繰り出す人間がいたのだ。それは紛れもなく、私自身だった。
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死にたい、死ね、死にたい死にたい死にたい。
私の場合は「死にたい」が圧倒的に多い。父よりもうんと小さい声だけど、回数は私の方が上だ。言おうと思ってもいないのに、息をするかのように自然と言葉が出てきてしまう。
家以外でもたまに危ない時がある。1人で道を歩いているときとか、心を許している友達といるとき、ふっと言ってしまいそうになる。死、まで出てきて、慌てて咳き込んだりして誤魔化したことが何度もある。
私よりももっと酷い親の元で育ってきている人が世の中にはたくさんいる、ということは分かっている。私ももう大人だし、自らの至らない部分を全て親のせいにするのは違う。
だけどこの件に関しては、父の行いがそのまま私に現れすぎていて、さすがに影響しているだろうよ、と思う。していると言わせてくれよ、と。
今の自分を客観的に考えたとき、死を願うほど辛い状況には置かれていない。
特別恵まれていたり秀でていたりする部分はないけれど、仕事も気に入っているし遊んでくれる友達もいるし、めっちゃ不幸ってことはない。
にも関わらず「死にたい」と言い続けてしまうということは、今後どんなに幸せになっても、この奇行は止められないんじゃないだろうか。
実際、それは未来の私にしか分からないことだけど。現在の私に出来るのは、せめて少しでも発する回数が減っていますように、と願うことだけだ。