その看板の前で、思い出したのは父の手帳の裏表紙だった。

父。何も言わない人だった。
何を聞いても、「君がそう思うならそうだよ」と言った。お酒が大好きで、人生で一番大切なものはお酒、その次に自分自身だと言っていた。
子供の頃のわたしには彼がとても強く、遠い存在に見えた。何があっても動じない。文句ひとつ言わないその姿。

◎          ◎ 

そんな父は毎年突然、数字の1から9までが何色に見えるか、わたしに聞いてきた。
「考えなくていい。何色が頭に浮かぶ?」と父が言う。
わたしはたどたどしく答える。父は長年愛用している黒の手帳の裏側にそれを書き込む。めったに笑わない彼の、嬉しそうな顔。

毎年行増えていく。
それらの色は去年と同じだったり、変わったりした。色が変わった年には、「3が変わったね」などと父が言う。几帳面そうな、小さい字。少し右に傾いている。その度にわたしはなんだか、父の役に立ったような、満足げな気分になった。今思うと父と話がしたかっただけなのかもしれないけれど。

それらが10行を超えた頃、父がシラフでいることは、ほとんどなくなってしまった。父と母は別々に住み始めてしまった。わたしは自分勝手なクソガキで、母とぶつかり高校を中退し、家を出た。そのまま帰らず、知らない街で働き始め、人生が始まった。

両親は憎しみの対象となり、長年その罪悪感に苦しんだ。

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それから何年も経って、周りの人に助けられ、わたしはいよいよ大人になっていた。

そのあいだ、わたしは父の存在などすっかり忘れて生活をした。そんなことあるのかと思うかもしれないが、ほんとうにすっかり忘れていた。
ある日、好きな人が隣で呟いた。

「あの文字が黄色なのは、なんだか納得いかないなあ

そこにあったのは個人経営のラーメン屋で、店の名前が大きく書かれた、手作りの看板が店前に掲げてあった。

ただ、それだけだった。
わたしは、はっとする。突然父の手帳が蘇った。かつて愛しかった、裏表紙。

ある時、わたしは父に聞いてみた。

「数字に色があるなら、文字にもあるの?」
「あるよ。お父さんに文章は眩しすぎるから、本は読まない。大人になれば分かるよ

酒豪で、無口。おそらく芸術家。哲学者かもしれない。

母へのプロポーズの言葉は「君がいなくなったら、僕ほんとうにひとりぼっちだよ

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ずっとずっと、父は大人だと思っていた。遠い遠い存在。無口は強さの象徴だと思っていた。だけど大人の中身は、子供の頃思っていたそれとは全然違う。
今なら分かる、父の弱さ。わたしは知った。お酒に飲まれるほど、生きづらい日々が続く苦しさを。愛する人と衝突する痛みを。

1は白、2は黄緑、3は青で4は赤。
えーっと、5はオレンジ、6は緑で7は黄色。8は深緑。9は、茶色。
あの手帳はいったい何処へ?わたしと父だけの、あの研究。
お父さん、わたしにはまだ文章が色とりどりに見えません。
わたしが、まだ子供だから?

その夜わたしは、はじめて恋人に父の話をした。
彼は興味深そうにそれを聞き、何も言わずに微笑んだ。
そしてわたしは、目の前にいるこの人が、父に似ていることに気がついた。