小中高時代に体育の授業で受けたスポーツテストは、私にとって健康診断のようなものだった。毎年、新学期になると憂鬱にさせていたスポーツテスト。「このままだと胃下垂になりますよ」だから、運動しましょう。なんていう結果が返ってきた時は、意地悪な採点結果だなあと思った。

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中学時代に運動部に所属していたけれど、私は体育会系が似合わない。熱くてオラオラした感じが正直苦手である。その熱血な雰囲気が、いまは懐かしい。運動部でも文化部でも、毎年必ずスポーツテストを受けさせられていたことが、今となっては遠く昔のことに思える。

シャトルランで最後まで残っている人を見ると、人間じゃないと半ば感心しながら呆れたものだ。どうしてそこまで走れるのだろうと。集中力をグッと上げて、走り続ける強さは見習いたいものだ。現在、スポーツとは無縁な世界にいるけれど、スポーツで培われる精神力は、どの世界でも通用すると思う。

何かひとつのことをやり遂げるというのは、そう簡単ではない。思っていたのと違うと知った時、そこから逃げ出したくなる。けれど、その道を諦めずに走り続けた者だけが見られる景色があると、とあるドキュメンタリー番組で耳にしたことがある。確かに、そうだと納得させられたし、スポーツでしか味わえないと決めつけていた粘り強さは、どこにいても培われていくのかもしれないと考えていた。

スポーツテストは、体育の授業中に淡々と行われていたけれど、その時間のなかには、それぞれが自分と葛藤していたはずだった。それぞれが抱く目標とリミットを達成するためには、いま何が必要なのだろう。そう考えさせられ、成長するのがスポーツなのかもしれない。私がスポーツに対して、そういう考えをもったのはつい最近のことである。

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小説を書くことはマラソンに似ていると思う。ストーリ―を立ち上げて、定義を固めて、その構成にあった場面を書き続けていく。それを積み重ねて、やっと作品が完成する。途中、納得のいく場面が書けず詰まった時は、ゴールなんてないのではないかと絶望する。

それでも、必死に完成まで、ゴールに向かって走り続けるようにして、書き続けるのだ。それが、スポーツで得る粘り強さに繋がっていると思う。自分のなかにしまい込んでいた言葉と、想い、考えをあふれさせる。そうしてくと、気づけばゴールにたどり着いているのかもしれない。そんなことを考えながら、一見スポーツとはかけ離れている世界で、私は粘り強さを学んでいる。実際にスポーツに励むことは、全くといっていいほど無くなってしまったけれど、そうした粘り強さや根気などの精神は、創作活動に生かされているはずだと思う。

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運動神経がまったくよくない私は、体育ではバスケもテニスもバレーボールをやっても周囲に足を引っ張ってしまってばかりだった。そんな運動能力ゼロの人間が、何度やってもスポーツの魅力なんてわかるはずないと思われてしまうかもしれない。しかし運動ができなくても、それを克服できなくても、「失敗しても立ち直って、また立ち向かえる強さ」は絶対に身についていると私は感じていた。

もう大学で文芸を学んで四年目になる私にとって、続ける粘り強さは中高時代の部活や体育で学んだおかげで、今があると思っている。ここまでたどり着くまで、失敗がなかったとはいえない。どちらかというと、失敗することのほうが多かった。

そしてスポーツを通して何度でも立ち直る強さを学ぶ価値が、今になってわかってきたのだ。スポーツの世界とは果てしない距離があるように思っていたけれど、スポーツから感じた精神力は、自分が心地よく毎日を生きるうえで欠かせないものになっているのだった。