私は幼い頃あいさつをするのが苦手だった。
人見知りで、いかにも子どもらしい無邪気な感じは無く、近所の人に会うとあいさつをしなければならないので会いたくないと思っているような子どもだった。実際会っても親から「ほら、こんにちはは?」と言われないとあいさつできなかった。

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しかし年齢を重ねるにつれて、恥ずかしいからあいさつができないとも言っていられず、自然とあいさつをするようになっていった。いや、むしろ積極的にするようになっていたかもしれない。

幼い頃あいさつできていなかったことで、あいさつも出来ない礼儀のない子どもだと思われているのではないかという被害妄想をしていたからだ。だからむしろ、積極的にあいさつをして昔の自分の印象を払拭しなければと、近所の人に会うと相手より先に声をかけていた。

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そんなある日、母から「今日近所の人にあいさつした?いつも会うと感じ良くあいさつしてくれるって近所の人が褒めてたよ」と聞かされた。私は「そうなんだ」と素っ気なく返事をしたが、内心複雑な思いを抱いていた。
最初は、そんな風にあいさつを受け取ってくれていたなら、やっていてよかったなという思いだった。しかしその後、礼儀のない子どもというレッテルが剥がれて良かったという安心感が出てきたのだ。
このとき私は、自分は近所の人にあいさつすることを目的とするのではなく、自分を良く見せるための手段としてあいさつを利用していたことに気付いた。

褒めてもらえて嬉しかった気持ちはもうどこかにいってしまった。「偽善者のかたまりじゃないか。あ、今に始まったことじゃないか」私はこれまで人の前で良い顔ばかり見せて生きてきたことを思い出し、自己嫌悪に陥った。

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学校では、先生の言うことをよく聞き、友達とも出来るだけ意見がぶつからないように注意しながら過ごしていた。家でも、○○が食べたい、○○が欲しいという駄々をこねず、欲のない大人しい子として生きていた。

本当は、先生に反抗心を持つこともあれば、友達と意見が違うこともあるし、食べたい物も欲しい物もあった。でも、その思いを口に出すことはなかった。なぜなら、自分の印象が悪くなることが怖いから、自分から人が離れていくのが怖いから。自分のありのままを出して、周りから見捨てられたなんてことは一度もないのに、そういう考えばかりに捉われて、いつもどこでも上辺の自分で生きていた。そんな自分が嫌いだったが、変えられなかった。

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そこから数年が経って、私の祖母が亡くなった。

葬儀には来なくていいと行った祖母の近所の人が駆けつけてくれ、祖母は良い人だった、お世話になったと皆が口をそろえて言った。私からしても優しくて良い祖母だったが、他人からもそう見えていたんだとなんだか嬉しくなった。
しかし、私は母から衝撃的な話を聞いた。「おばあちゃんさ、近所の人から慕われてたみたいだね。でも私には近所の人の文句色々言ってたんだよ。おばあちゃんもそうだし、私もそうだし、うちの家系は皆外面がいいんだよね。でも、良いことじゃない?実際こうやって良い印象残せてるんだし」と。

私に良いところばかり見せていた祖母にもそういった一面があったんだ。他人の前では良い人を演じて、私と同じじゃないか。しかも演じ切れば、最終的に相手に良い印象を抱いたままでいてもらえるなんて、外面が良いのも悪いことじゃないのかもしれない、そう思ったのだ。
それまで人の前で良い顔ばかりして生きている自分に嫌悪感を抱きながら生きていたが、これも自分なりの人との関わり方なんだと、自分を肯定できるようになった。

それからというもの、私は逆にポジティブな気持ちで近所の人にあいさつができるようになった。良い印象を抱かれたいという目的のためにあいさつを利用してもいいじゃないか、相手も不快な思いをするわけではない「ありのままを出すこと=生きやすい」なんてことはないんだ。
だから私は今日もあいさつをする。その裏にどんな思いがあるのかは隠したまま。