起きて、食べて、働く。毎日その繰り返し。

これは、社会人一年目である看護師の私が仕事に忙殺され趣味も忘れていた頃の話だ。
梅雨に入りその日も、朝から一日中しの突く雨が降っていた。
今思えば、よくやったと過去の自分を褒めてあげたい位なかなかに悪い一日だった。

◎          ◎ 

「なんかダルいし、頭痛いかも」

連日続いている雨にどんよりした面持ちだ。
気圧にやられた身体を引きずって、なんとかベッドから這い出る。「今日も仕事が始まる。嫌だなぁ~」なんて、ダラダラした学生気分の延長のような気持ち。社会人一年目なんて、誰もがそんなものである。

こんな私だが、社会人になる前からの秘密のルーチンがある。
化粧はナチュラルに整えて笑顔の鎧で自分を守る。髪はピシッと纏め清潔感と真面目さをアピール。完成された鏡の前の自分を見ると不思議と気持ちも固まり立派な社会人女性の完成だ。

「よし、今日も私は頑張れる」

片親で育てられた私は、昔からメンタルが弱かった。甘えたがりの私にとって「頑張る」は魔法のような言葉だった。どんな時でも強い自分で笑顔のままでいられるように、といつしか始めるようになった。7時20分、いつも通りの出勤である。

◎          ◎ 

「おはようございます。よろしくお願いいたします!」笑顔で挨拶し、勤務を見ると自分がリーダー担当だった。自分よりも経験豊富な先輩へ指示をださなくてはならない。ミスは許されないぞと緊張の中、自分を奮い立たせた。
深呼吸をして「まず、1つづつ確実に」と急な欠勤の人員調整から取り掛かって行った。しかし、思ったように事は進まず予定外の事ばかりだった。大小ミスをしながら怒られクタクタになりながら仕事に追われた。緊急入院も来て定時に上がれず、結局4時間超えの鬼残業となった。これが社会人のリアルなのだと、憧れていた過去の自分に教えてあげたい。

「はぁ、もう全部最悪だぁ」

20歳の夜、私は1人泣いていた。
入口に置いていたはずの傘は無く、車はバッテリーが上がってしまいエンジンがかからなかった。

「今からどうこうするなんてもう無理。車は明日にして歩いて帰るしかない」

疲れきった頭ではスマホを使って誰かに助けを求める選択肢すらなかった。
殴りつける雨と風を全身で受けながら、4月におろしたばかりのスーツとパンプスで帰路についた。車で数十分の道は、いざ歩いてみると疲労もあり何十倍もの距離に感じた。

慣れないパンプスで靴擦れをおこし暗い夜道でグレーチングにヒールがはまり折れてしまった。化粧はドロドロで髪はボサボサ。私お手製の社会人の鎧は崩れ始めていた。
傍から見たら間違いなくバケモンである。

◎          ◎ 

黙々と何も考えずに歩く、歩く、歩く。すると、心に溜まっていた嫌なことが徐々に流されてゆくのを感じた。家に帰る目的とはいえ、ただただ歩くゆったりとした時間が久々だった。

自分だけの時間、誰にも見られていない自由な時間。久しぶりに息を吸えたような気がした。

ボサボサになった髪を揺らして不格好だが真っ直ぐ前を見据える。
自分の足で1歩1歩確実に帰路を歩んでいく。
身体が軽くなり、視界がひらけた気がした。

あの日から、私は少しだけ変わったように思う。

社会人3年目の今でも、上手に生きていくための鎧は変わらず身にまとっている。しかし、仕事終わりに、自分の時間を作るようになった。

起きて、食べて、働く。そして時々、歩き新しさに触れる。
社会人の枠に縛られ、毎日がいっぱいいっぱいだった自分に少しのゆとりを。

家に着き、ふと見上げると雨は上がっていた。
びちゃびちゃのパンプスで踏みしめた地面からは、雨上がりの香りと夏が始まる匂いがした。