スポーツは全くできない訳ではないが、私にとって苦い経験が多い。

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私が通う小学校では毎年マラソン大会があった。私は少しでも良い順位に入れるようそれなりに張り切っていた。小学校3年生時のマラソン大会当日、スタートと同時に皆一斉に走り出した。

その時、私は周りに圧倒されて転倒してしまった。見ると膝から血が出ていた。私は今にも泣きだしそうだった。しかし、せっかく今まで授業で練習してきたのに、ここで負ける訳にはいかないという想いがあった。必死に痛みを我慢して走った。

結果、学年で女子の10番目だった。私にとっては快挙だった。ゴールと同時に痛みと安堵で涙が止まらなかったことを覚えている。小学校高学年になると縄跳びで二重跳びの課題があった。私はなぜか二重跳びが得意で連続して跳ぶことができた。それが、数少ない私にとってのスポーツの栄光だった。

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中学時代は水泳に苦労した。小学校の時も水泳は苦手だったが、子供ながらに純粋に楽しいと思える一面があったし、周りと比べて自分が泳げないことがそれほど目立っていなかったと自分の中で認識している。

私はクロールの息継ぎが特に苦手だった。夏休みに補習に呼ばれたこともあった。息継ぎをしようとすると水が口の中に入ったり、体が沈んでしまう。その状態で15mくらい泳ぐのが精一杯だった。

息継ぎの観点では平泳ぎの方が楽だった。しかし、足の動かし方が今一つ体得できなかった。最終授業の時、私はクロールなのか平泳ぎなのかよくわからない泳ぎ方で何とか25mを泳ぎ切った。25mを泳げたのは後にも先にも人生でその1回だけだ。中学時代のささやかな栄光だ。

水泳に関わらず、中学時代の体育の成績は足を引っ張っていた。内申点に影響するので、それなりに良い点数を取りたかったが、5段階評価で5を取ったことは一度もなかった。

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高校時代の体育の授業は競技を選択することができた。私は卓球が非常に楽しかったことを覚えている。それまでに経験したことがなく、どんな感じか挑戦してみたかった。テニスほど大きく体を動かすことはないが、球が小さいので集中して見る必要があった。しかし、慣れてくると数回ラリーを続けることができ、それなりに楽しかった。

高校3年生の時、学生生活最後の体力テストだったので、いつも以上に張り切っていた。私は一度で良いからA評価を取りたかった。しかし、いつもハンドボール投げや持久走で足を引っ張り、どんなに頑張ってもB評価しか取れなかった。

人生最後の50m走。私はいつになく必死だった。手を一生懸命振ると自然と足が出ると聞いたことがあったので、必死に手を振った。思いのほか速く走ることができた。ゴール目前、私は自分の視界がだんだんと斜めになり、次第に地面に近づいていく感じを覚えた。そして、ゴールと当時に転倒した。偶然にもスライディングゴールだった。私は体を強く打ち付け、顎を思い切り擦りむいた。体操服も土でドロドロだった。

倒れ込んだ私に、タイムを計ってくれた子が私の顔を覗き込むようにタイムを伝えてくれた。目標としていた8秒台だったが、最終的にA評価は取れなかった。私はしばらく顎に絆創膏を貼って過ごしていた。恥ずかしかったが、それも良い思い出となった。

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大学時代は人生で1番運動をしていなかったと思う。大学では体育の授業を実技か講義かを選択できた。私は迷わず講義を選んだ。大学時代は観光サークルに所属し、サークルのメンバーと共に週末にお寺や観光スポットによく出かけた。それが私にとって運動という認識だったのか。それは定かではない。

社会人になってから、ジムに関心を持ち始めた。私は定額制のジムは続かないと思ったので、単発で料金を払って利用できるジムを選んだ。ジム用のシューズも買った。時々週末に1~2時間ジムに通った。しかし、すぐに行かなくなった。ジムがハード過ぎる訳ではないが、いつしか遠ざかってしまった。張り切って購入した室内用シューズもいつの間にか土足用に変わっていた。

結局、私が辿り着いた最適な運動は1日1kmのウォーキングだ。家でその場歩きをするか、外で歩くか、特にルールは定めていない。とにかく、1km分足を動かすこと、ただそれだけ。それが私にとってちょうど良い。わりと最近定めたルールだが、今のところ続いている。この小さな習慣が続くことを祈る。