いけない、机に突っ伏して寝てしまった。窓の外は朝の光が…。徹夜で数学のテスト勉強をするはずだったのに、もう時間がない。どうしよう。
そこでハッと目が覚める。ああ、またこの夢か。そんな夢を見る人は多いと聞くが私は最近もうなされた。

数学が嫌いでなかでも連立方程式を使って食塩水の濃度を答える問題は大嫌いだった。当時通っていた塾の先生が熱心に図を書いてコツを教えてくれたのに聞けば聞くほど分からずテストは散々な結果だった。

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あれから年月は流れ、先日の断捨離中に見つけた中2数学の教科書。パラパラめくっていて例の食塩水問題が目に留まり、何の気なしにやってみた。…なんだ、そんなに難しくないじゃないか…というのが感想。

何を問われているのか、こうやったら解けるのでは? うーん、これでどうだ。よし、こうだろう。教科書欄外の解答を見ると…ピンポーン!正解だ。

あの頃は苦手意識でいっぱいだったので問題文を読むこと自体が苦痛だった。読み進めるうちに分かるわけがないという絶望感でいっぱいになったものだ。

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それが今はそうでもない。いったいなぜ? 思うにテストの制限時間や点数のしばりがなくなり肩の力を抜いて、クイズのような感覚で問題文に向かうことができるようになったからではないか。

そして、この方法がだめならこっちはどうだろうという思考と試行。ゴールへの道はひとつとは限らない。迂回、分岐点、行き止まり、寄り道、立ち往生…。いろいろあるけど出口はきっとあるはずだ。

そう思えるのは時間の経過と人生経験による賜物か? あの時分からなかったことが今なら分かる(ような気がする)。わけの分からない数式や化学式、古文や英文法等々。こんなものを誰が作ったのかと恨めしく思ったことだが、それらは年月を経て滋養となり私の問題解決能力を支えてくれているのかもしれない。

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中学校2年生の数学問題が解けたことに気を良くして、そんなことを思う61歳の夏。

今も分からないことだらけだ。社会がどんどん発展、成長して新しい概念や情報が溢れている。AIとかサステナビリティとかダイバーシティだとかちんぷんかんぷんだ。デジタルトランスフォーメーション? それはいったい何なのだ。

ネット検索して説明を読んでも分からない。二度三度、繰り返し読んでも老いた脳には浸み込まない。やはり相変わらずの勉強嫌いだ。しかし勉強は嫌いでも学ぼうという気持ちはあるつもり。

もう定期テストはないのだし70点ラインを気にしなくてもよいのだ。義務やノルマを外れたらそこにあるのは純粋な興味や関心。私にとって日常で見聞きする分からないことの全ては学びの対象だ。

とりあえずスマホを片手に気の向くまま興味のある言葉に近づいてみようと思う。好き嫌いの前に、どれどれちょっと見てみようかという姿勢でやってみる。そんな積み重ねが滋養となって、いつか「分かる」と思える日が来たら楽しいだろう。