2年前にかがみよかがみで掲載していただいた『母にとって「用なし」を悟った日、私は「媚びる子」になった』 で、幼い頃に抱いたモヤモヤをエッセイとして昇華することができた。

エッセイに書き甲斐を感じるのは、そういった過去の自分を少し成長した現在の私が救えた気持ちになれるところ

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かつての私は「かわいい」という形容詞が持つ“差別感”に苦しんでいた。

年を重ねるにつれ、自分との比較対象になってしまう「同世代の同性」たちとほとんど交流がなくなり、行きつけのカフェや仕事関係で、私は最年少の立ち位置になる機会が増えた。

その度に歳上の方々からの「かわいい」を独り占めする特権を手にできるようになっていた。

だから以前に比べたら「かわいい」という形容詞が持つ“差別感”に苦しむことは激減したように感じる。

幼い頃、2歳しか変わらない妹がキッズモデルをしていたり、持病があって目を離せなかったりと周りは妹に付きっきりで、「私だけを見てほしい」なんて口が裂けても言えなかった。

27歳にしてようやく「自分だけを見てもらえる環境」を手にした私は、今が“人生の夏休み”だと思えるほどにストレスフリーな生活をしている。

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ところが、そんな心地よい環境に身を置くことで「かわいい」という形容詞が持つ、違った意味合いを感じ取れるようになったのも今日この頃の話。

かつての私は「かわいい」なんて言葉とは無縁だと割り切って、常に虚勢を張って、誰からも舐められないようにすることに必死だった。

「どうせ誰も気にかけちゃくれないんだから、自分のことは自分でしなくちゃ」と、頼り方も知らないので独りよがりになってしまっていたからだ。

“人生の夏休み”を過ごしている現在はというと、以前は虚勢を張るために着ることを避けていたようなミニスカートやピンクのワンピースといった、可愛らしい服装を身に纏うようになった。

虚勢を張ることを辞めた私は以前よりも自分を労わることができるようになり、肌や髪のケアも今まで以上に手をかけることができるようになった。

その甲斐あってか、初対面の方から「ハタチくらいかな?」「大学生?」なんて、若く見られることも増え、その言葉の奥に見え隠れする「かわいい」というニュアンスも勝手に察知できるようになっていた。

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そんなありがたい言葉を受け取る中で、とある初対面の方から「顔立ち、おぼこいなぁ〜」と言われた。

「おぼこい」とは、関西弁で「あどけない、可愛らしい」と言った意味で使われる形容詞。

新卒で都内の美容部員をしていた頃は「研修生」というバッチをつけていているにも関わらず、「あのベテランさんにタッチアップしてもらいたい」とお客様からご指名が入っていた私。

だから、「あどけない」というニュアンスの形容詞で自らを言い表される日が来るとは思ってもみなかった。

「おぼこい」という言葉を紐解いていくと、そこには小さくて弱いものを大事にしたいという“慈愛心”を察知することができた。

“慈愛心”......。
これもまた、幼い頃に私が欲しくてたまらなかったものだった。

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私の母はいわゆる過干渉な「毒親」。
アラサーの私が22時にゴルフの打ちっぱなしに行くと話しただけで、「これまでそんなことなかったじゃない!?なんで今から行くの!?」と、過剰なほどに心配してくる。

それは“慈愛心”ではなく、自分の監視下で想定外の動きをして欲しくないという“過干渉”。

“慈愛心”は自分より小さくて弱いものに対して、何も疑うことなく大切にしたいという心のこと、きっと「かわいい」と思う対象を束縛する効力はないはずだ。

逆に、“過干渉”は信用していない対象を束縛するだけの行為だと思う。

生まれてから今まで、母のそういった言動を見てきて、母は“慈愛心”をあまり受け取ることができないまま親になったのだろうと推察する。

「かわいい」という形容詞に抱く印象には、それぞれが抱く満たされなかった過去が潜んでいるのではないだろうか?

「かわいい」という言葉の印象を紐解くことで、「かわいい」の語源が理解できる日もそう遠くはないだろう。