声が震えた。
学校へ向かう電車内での痴漢・ストーカー被害を訴えているとき、今まで味わったことのない胸の詰まりにどっぷりと気が沈んだ。心臓が激しく壁を叩き、じわじわと顔を赤らめる熱を下げる術はなかった。胃が表裏逆さまになっているかのような羞恥心は生ぬるい涙とともに止むことを知らず、明日からどうしようという不安に駆られた。
いっそ私が我慢をすれば良かったのではないだろうかという後悔の念が胸に押し寄せて、先程とは違う温度の涙が溢れてくる。このような内容を誰かに相談することの難しさと気まずさをひしひしと感じながら、一言一言息を詰まらせ私は辿々しく声を発していた。言いたいことが言えず、伝えたいことが伝わらない現状に半ば絶望しながら誰が私の気持ちを理解してくれるだろうと深い孤独を感じたのを今でも覚えている。
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それからというもの私は性犯罪について考えることが多くなった。性犯罪の被害者の大半は女性だ。無論、男性の被害者が全くいないというわけではなく、性被害者の約4割を男性が占めていることを示す調査結果もある。
しかしやはり、男性の割合が女性のそれを上回る結果はあまり見ない。これは、肉体の力強さも含め、「女性軽視」の思想がセクシャルな場面においても一定数の人々の間に無意識に根付いてしまっているからではないだろうか。
この思想の原因、そしてこの思想を淘汰するために自分には何ができるだろうかと日々悶々と考えていたが、考えれば考えるほど電車内の出来事が頭の中でぶり返し、私がそれ以上思考を進めることを憚った。周りの人からなぜ通学路を変更したのか尋ねられても精一杯の作り笑いで受け流すことしかできなかった。
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そんな中、インターネットのニュースで父親からの性被害を実名で公表している女性を知った。彼女は名前や顔だけでなく、父親に自分の罪を認めさせたときの会話のやり取りをも録音し公表していた。
胸を打たれた。
この言葉の意味を感覚とともに理解したのは初めてだった。言葉では形容しがたい驚きと称賛、そしてほんの少しの動揺が私の中で広がっていくのを感じた。
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性被害について語るのは難しく、気まずい。しかし、私は友人に自分の経験を声にのせて伝えるようになった。私が話を打ち明けた全ての友人は私の話に真摯に耳を傾けてくれ、また、自分たちの女性軽視を感じた経験やそれについての考えなどをたくさん話してくれた。
そのような意見を交換しているうちに私は、「このくらいならば我慢すべき」と女性を軽んじた行動を見過ごすこと自体が現状の改善を見送らせているのだと気がついた。
少しでも違和感を覚えたらNOと言う。
これは一見簡単そうだが、周りの人を気遣い、その場の空気を乱すことは厳禁だと教育されてきた私たちにとっては少し難しい。大きな違和感や誰もが感じる違和感に対してのNOではなく、小さな違和感やそれを我慢している人がいる違和感はNOと言う時の弊害が多い。
しかし、あの電車で初めて違和感を覚えた時、私がNOと言えていれば、または行動でNOを示せていれば、その後に私の心に刻まれる傷はなくなっていたかもしれない。電車に乗るたびに呼吸が荒くなったり、人相が似ている人を見かけるたびに足が震えて動けなくなったりすることもなかったのかもしれない。
そう考えると自分が感じた違和感に対してNOと声を発することは、私が私の未来をつくるための最初の一歩となりうるのではなかろうか。私たちは場を乱すことよりも自分を乱すものに対してもっと敏感になるべきだと強く感じる。
私たちは誰しも自分を守り抜く権利を持つ。それは絶対に誰かに奪われたり隠されたりできない生来のものである。違和感に対して声を上げることはその権利を呼び起こし、私たちの未来をつくるのは私たちであることを意味する。
この世界のすべての女性が己の権利を呼び覚まし、未来を創るために声を上げることを私は心から願っている。