人生で一番努力した時期を思い浮かべるなら、わたしは中学時代を挙げるだろう。勉強も部活動もやり切ったと自信を持って言えるほど全力だった。部活動は結果として報われなかったが後悔はなかった。勉強に関しては実力よりも格上の高校に合格することができた。努力が報われた瞬間だった。

だが、そこからの3年間、華のJK時代、わたしは歩みを止めた。

何もかもうまくいかなくなった。
栄光の中学時代は、実は、ハリボテでしかなかった。勉強も部活も、単なる外面だったのだ。

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なぜならば、その頃家庭は大崩壊の一途をたどっていたからである。両親が警察をも巻き込んだ泥沼離婚を果たしたと思ったら(『缶のミルクセーキは父との記憶。甘く優しい記憶を確かめたかった』)、父親と入れ替わりで母親の恋人が居候することになった(『不自由はない生活。でも、私を愛してくれるのは、私しかいなかった』)。それと同時期に大災害までもがわたしたちを襲った。散々な生活だった。

当時中学生の少女が背負ったものはどれほどだったのだろう。あまりにも重く、辛かったのだということは想像に難くない。

それでいて、わたしは感情を表に出すことが大層苦手だった。それは今もなのだが。

小学校高学年の頃、初めて友人と映画を見に行った。恋愛映画だったと記憶しているが、いわゆるお涙頂戴系だ。上映中も周囲のすすり泣く声が館内に響き、隣の友人も顔をぐちゃぐちゃに濡らしていたが、わたしは表情一つ変えずに映画館を出た。友人は「人じゃない」と揶揄していた。正直、今も同じ映画で泣ける自信はない。

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また、今の職場でも、上司から「緊張してる?」と何度も確認をされたり「緊張してるんだね!よかった~」と何らかの感情を抱いていることに安心されたりするくらい、感情が表に出にくいようだった。

今振り返ってみると、あの頃自分なりにSOSを出していたのだなと思うこともいくつかある。心配して面談を組んでくれた担任に暴言をぶつけたり、恩師に家庭の内情を淡々と説明をしたり。周囲にとって、あまりにもわかりにくい表現であった。加えて、感情表出の苦手さも相まって、「平気そう」にしか見えていなかったのだと思う。

「誰も助けてくれなかった」。そんな風に思っていたのだから。

中学時代は、どんどんと崩壊していく家庭から逃げるように勉強と部活動に打ち込んだことで、目を背けられた。その負担を感じないようにすることができた。それでなんとかなっていた。

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高校生になってからもしばらくは順調だった。だんだんと学校生活の忙しさに追い込まれ、わたし自身のバランスも崩壊していったのだった。

その頃の家庭はある程度落ち着いてはいたのだが、あらゆる反動なのだろう。なにもかもに努力することができなくなっていった。いわゆるエネルギー切れだった。

勉強には全く手がつかなくなり、授業も寝ているか小説を読んでいるかのどちらかで、みるみるうちに授業にもテストにもついていけなくなっていった。外から見たら部活動には打ち込んでいる生徒に映っていたかもしれない。実際はそうではなかった。経験者というだけでちょっと人より秀でて見えていたのだろうが、話し合いは気が向いた時にだけ参加、コーチや顧問が不在とあらばすかさずさぼるなんてことは日常茶飯事だった。

なぜうまくいかないのかもわからなかった。栄光の中学時代を盾にして「やればできる」「できないのはやらないだけ」と自分を保っていた気もする。

結果、学力は下から数えた方が早く、部活動の仲間たちにも合わせる顔がないと今は反省している。

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大人になって、あの頃のあの出来事は虐待だったのだと知った。

エネルギーがチャージできなかったのは、家庭が安らげる場所ではなかったからだったのだと分かった。思春期というのも相まって、より不安定さに拍車がかかったのだろうと考えることができた。一概に「出来損ない」というわけではなかったのだと、救われた。両親に愛されたかったのだと、やっと自分の気持ちを見つけ出せた。自分はここにいていいと思いたかったのだと知った。誰になら受け止めてもらえるのか必死に探していたのだった。

あの頃のわたしは救われなかったけれど、今のわたしがこうしてエッセイを書くことで救い出そうとしている。あの頃のわたしだけではない。今どうしても辛くて生きづらい人たちのことも。

過去を昇華するわたしは、また一つ強くなる。