母の匂いだと思っていたのは、タバコの副流煙だった。
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家族は全員喫煙者だった。小さい時からそんな家族を見て育った私は、タバコが悪だという意識が全くなかった。だから、母がタバコを吸っていて近づかないように言われても、母の膝に乗っては甘えていた。母からはいつも、何とも言えない、甘いような、でもすっきりしたような匂いがした。私はそれを、母の匂いだと思って、母に抱っこされながら服に染みついた匂いを胸いっぱいに吸っては安心していた。
小学校高学年にもなると、タバコが身体に良くないということが分かってきた。母には長生きしてほしかったし、私だって、真っ黒な肺になるのは嫌だったから、何度もタバコを止めてほしいと打診した。でも、毎回曖昧な返事をするばかりで、暖簾に腕押しの状態が続いた。
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それでもやっと、中学受験の勉強を頑張ると約束した時、なつめが頑張るなら一緒にと、母は自分でタバコを止めると決めてくれた。ニコチンの少ない電子タバコから初めて、禁煙するつもりだった。でも、電子タバコは何かが焦げたような変な匂いがして、家族全員から不評だった。しばらくして、母がこっそりタバコを吸っているのを見かけた。
「タバコ止めるの止めたの?」
と聞く私に、母は苦笑いをした。私も人のことが言えるほど、勉強に心血を注いでいたわけではなかったし、電子タバコの匂いもこりごりだったので、結局約束は自然消滅してしまった。
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大学生になり、一人暮らしを始めた。私の服は、実家と同じ柔軟剤を使っても、母の匂いにはならなかった。改めてそれを不思議だとは思いながら、けれど母とはどこか神秘的で偉大な存在な気がしていた私は、母には子どもを安心させるフェロモンのようななにかがあるのかもしれないと、あまり深くは考えなかった。
一人暮らしを始めて数か月したある日、母が部屋に来た。一緒にご飯を食べに行ったり、一人では怠けがちな大掃除をしたりした。休憩しようと母がタバコを吸い始める。私に気を遣って窓を開け、部屋の隅で火をつけるが、風は部屋の中に向かって吹くため、結局副流煙が入ってくる。大学生になり、しかも薬学を学んでニコチンが体内でどのように働くか、タバコがどんな影響を及ぼすかもう知っている私は顔をしかめる。できるだけ副流煙を吸わないように息を浅くする。
でも、そこに、あってはならない匂いがした。甘いようなすっきりしているような、小さいころから嗅ぎ慣れた母の匂いだった。私が胸いっぱいに吸って甘えていた匂いの正体はただのタバコだったのだ。
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母はほんの2泊3日ほどしかいなかったが、帰ってからも私の部屋は母の匂いがした。狭い部屋に服を干しているのに、柔軟剤の香りなんて全くしなかった。ただ、タバコの匂いだけがした。私は、その中々消えない匂いの中で、懐かしいような、悲しいような複雑な気持ちで一人、知りたくなかった事実を抱えて過ごした。
願わくは、母が将来、肺の疾患にかかりませんように、と。