「あいつは空気が読めない」でも空気の読み方を教えてくれた人はいない

中国生まれ、日本育ちの私は七歳の時、両親の都合で田舎の小さなコミュニティーに放り込まれた。田舎に住んだことがある人ならわかると思うが、小さいコミュニティーとはまさに地獄の具現化で、村の端っこで起きたことが次の日から何世代先まで噂の種にされるようなところである。みんな暇で、隣の芝生を観察しては、朝から晩までダイヤルを回す習性があるようだった。
そんな村に放り込まれた私は、バックグラウンドがすでにドラマチックだったこともあり、彼らにとって恰好の餌だった。
転校した先の小学校は全校100人程度で、小中学校と同じクラスで同じメンバーが約束されていた。クラスメイトはすでに幼稚園を同じメンバーで過ごしていたため、やはりここでも私が注目されていた。一挙一動がすべて注目されていた私に貼られた「おかしい人」。小学生とは素直なものである。
今思えば、生まれ育った文化の違いや、日本人独特の「空気を読む」という概念が理解できていなかったことが原因でかなり変わった行動をしていたのだろう。しかし、当時小学生である私は自分は周りとは違うということを個性だと捉えることはできず、周りに理解者がいない苦しみから心を病み始めたのである。
そして23歳の今、他責思考の私は「どうして当時誰も教えてくれなかったんだろう」と考えるようになった。
時をさかのぼって、まだ小さかった私は、足が速いHくんを好きになった。
でもHくんを一番最初に好きになったのはMちゃんらしい。どうやら誰かが好きだと宣言した相手を好きになったらそれは「取った」判定されるようだった。
Hくんを「取った」私はおかしい人。
どうして誰も教えてくれなかったんだろう。
四年生の時の担任は怖い先生でよく暴言を吐いた。月曜日は頭に寝癖をつけて、「今日の俺は機嫌が悪い!!」と怒鳴りながら入ってくる人だ。
私はよく先生を怒らせた。算数の問題で、小数点をつけ忘れた、音読の時間で漢字を読み間違えた、姿勢が悪い、月曜日に忘れ物をした、鼻をすする音がうるさい、とにかく思い出せるだけでもたくさんの理由で怒鳴られ、お前はとことん俺を怒らせるな、がもはや常套句となり、「おかしい人」というレッテルはさらに説得力を持って私に貼られた。
どうして誰も先生の言うことは必ずしも正しいというわけではないと教えてくれなかったんだろう。
言葉とは不思議なもので、そういわれると潜在意識でそう行動してしまう。
ほかの言葉を防御に持っていない私は、次第に期待されている行動をすることを選ぶようになっていった。
「空気を読めない」と数えきれないほど言われたが、「空気の読み方」を教えてくれた人は一人もいない。
「距離感がおかしい」と耳にタコができるほど言われたが、「正しい距離感」はその人すらもわからないようだった。
日本人の間では「空気の読み方」と「正しい距離感」のマニュアルが流布されているのだろうか。DNAに刻み込まれているのかもしれない。
それも言葉にしてほしかったと願わずにはいられない。
言葉は伝えるために生まれたはずである。
言葉の武器化ばかり進んでいる現代で、なぜ言葉があるのか思い返し、常に心にとめなければいけない。
私は自分が教えてもらえなかった、言葉にしてもらえなかったことが反動で、おせっかいすぎるほど人に、言葉を浴びせてしまうように育ってしまった。
これもまたどうかと思うが…
それでも、これからは私が幼少期の自分を含め、誰も教えてくれなかったことを声を大にして伝えていきたい。
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