雪の記憶。北の地に住まう私にとってそれは毎年更新され、そして、職業や年齢の変化に伴って変化するものだ。

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具体的に言うと、幼いころの「雪遊びできてたのしい!」から大人になるにつれて「寒いし自転車使えないし雪かきはあるし滑るし本当に冬って必要?」と言った感じに。今言ったのは冬の記憶の方が正しい気がするが、雪の記憶も冬の記憶もほぼ同義であるので気にしないことにする。雪のない冬はなく、冬でない雪も(ごく稀にある例外をのぞいて)存在しないので。「ごく稀にある例外」というのはだいぶ前にGWにも関わらず雪が降ったことで、札幌に限るなら本当に異例だった。それ以降雪が降ってないところを見るとあの年は外れ値である。よって除外に限る。

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そして、雪の思い出というと、やはり雪遊びが思い当たる。

雪遊びが一番楽しかったのは、幼稚園に入るか入らないか辺りだった気がする。家の近くには公園があって、冬の土日によく父に雪遊びをしてもらった。もちろん、根雪になる前から公園に連れていってもらっていたのだけど、雪が積もってからの公園はそれまでと全く違っている。遊べる遊具が限られているのだ。

ブランコは1番上でぐるぐる巻きに止められていて使えない。シーソーも重りか何かが置かれていて遊べなかった気がする。数少ない使える遊具だって、雪のせいでほとんど埋まっていて夏に比べれば楽しさは半減だった。そんなわけで、冬は遊具なんてあてにできない。公園で遊ぶとなるとおもちゃの調達が不可欠だ。赤いそり(二歳上の兄がいるため、やや大きい)に、プラスチックのスコップ。これを持ったり父に持ってもらったりして公園で遊んでいた。

公園に着くまでだって楽しかった。父がそりを引いてくれたから。ついた先の公園では、兄妹二人で雪山から滑ったり父親と雪合戦をしたり、安全な範囲で父親に雪に投げてもらったりしていた。とにかく楽しかった。順序的には、はじめはそりで滑っていて、気が付いたらスコップを使って父親と雪をかけたりかけられたりしている。そしていつの間にかスコップも捨てて格闘ごっこをして遊んでいる。構図で言うと、父親対兄妹だ。雪の掛け合いも格闘ごっこも、もちろん父親はかなり手加減しているのだけども、体力の有り余る子供二人にとってはかなり楽しい遊びだった。

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そして今、すっかり雪遊びをする年齢でなくなって、あの雪遊びは愛情だったなと強く思う。だって、冬ってとにかく寒い。わざわざ雪遊びに出かけるなんて面倒で仕方がない。それに、父親は週5で働いている。忙しい人だったから帰るのが遅い日も珍しくない。だから、相当疲れていただろうに、私たちと遊ぶためだけに休日を削ってくれていたのだ。しかも雪遊びとなるとかなり体力だって使うし。それでも私たちを雪遊びに連れて行ってくれたのは、兄妹への愛情故であったし、そして母親への愛情でもあった。

父も育児をしていたが、やはりサラリーマンと専業主婦では後者の方が子供と一緒にいる時間は多い。それが二人となるとやはり疲労は募るだろう。父親はおそらくそんな母親を休ませようとしていたのだ。そういうことをまるっとひっくるめて、あの雪遊びは父親の家族への愛情であったのだと私は思っている。

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先ほど言った通り、もう雪遊びにそそられる年齢ではなくなり、雪が降ると寒いし自転車は使えないし、でかなり不便に感じている。温暖化が進行しているから、近いうちに北海道だって雪が降らないとか降っても積もらないとかになる日が来るかもしれない。そうなったのならなったでありがたいと思う。

それでもやっぱり、雪を嫌っているのに、この先もずっとある程度雪が降ってほしい。だって、そりに乗った子供とそれを引く親を見ると温かい気持ちになる。そしてそれは紛れもなく愛情であるから。毎年そういう親子があってほしい。そういう愛情を目撃できるようにあってほしい。そのためにも、雪は嫌いだが根雪にはなってほしい。できれば私の通る道だけ雪が積もらないし寒くないみたいに都合よく。