いじる彼女達も、嫌だと言えない私も。あの頃全員が未熟だった

中学生の頃の記憶というのは、曖昧な部分と鮮明な部分が混ざり合っている。あの時の私にとって、何が本当の友情だったのか、何が正しい選択だったのか、未だに答えが出せないまま。そしてそれは、大人になった今だからこそ振り返って、蓋を開けられる記憶だ。
私は中学生の頃、4人組のグループにいた。いつも一緒にいたメンバーで、お互いに何かがあったら庇ってくれたり味方になってくれる友人たちだった。
けど、今思うとこれが“本当の仲良し”といえるかは疑問も残る。実際には表面的な仲良しに過ぎなかったのかもしれない。
そのグループでは、私は自然と「いじられ役」のポジションに収まっていた。そしてそのいじりを受け流すたびに、心の中に小さな傷が積み重なっていくのが事実だった。
特にそのポジションを望んだわけでもなく、拒否できるような勇気がなかった。ただ流れに身を任せていた結果、そこに落ち着いてしまった。
当時の私はあまり言いたいことも言えなくて立ち回りも下手で、とにかくグループの中で「仲間外れ」にはされたくなかった。中学生だし、周りではもっと酷い扱いを受けてしまう子もいる一方で、いじりや軽いからかいを笑って受け流すことが最善だと思っていた。それが自分を守る唯一の方法。でも、普通にしんどかった。
4人で集まる約束があると、私は少し気が重かった。行けば楽しいけど、行く前は行きたくないと思いながら参加していたし、タイミングが許せばドタキャンしてしまうこともあった。もちろん、そのせいでさらにそれがきっかけとなっていじられることもあった。負のループだとわかっていながら、どうすることもできなかった。
親や別の友人に相談することを考えなかったのは、それが「いじめ」ではないと分かっていたから。問題を大げさにすることも避けたかった。私が我慢すれば、なるようになる。これよりひどくなることがあったらその時考えよう。
その結果、私は1人でそのストレスを抱え込むしかなかった。「みんな悪い子たちじゃない。言い返せない自分にも問題あるし。このままで良い」それが、私が導き出した答え。
あれから年月が経ち、私たちは大人になった。あの4人組の友人たちとはそれぞれライフステージが変わっていくことで自然と疎遠になったけど、今でも年に一度とかそれ以上、連絡を取っている。大人になった彼女たちはきちんと普通の人たちで、当時のようないじりやからかいを私に向けることはない。会って話せば大切な友人たち。
でも今がそうだからといって、当時のあの日々の記憶がまっさらに消えることは無い。それは全員が持っている共通認識だと思う。
全員が未熟だった。いじる側はいじることで自分たちの立場を守り、仲間意識を確認していたのかもしれない。でも、その立ち回りや言い方がいじられる側にどれだけのストレスを与えているかは想像が追い付かなかったんだ。そして、嫌だとどうしても伝えることができなかった私も本当に未熟だった。
その結果、今思い出すと少しモヤッとするような友情になってしまったのかもしれない。
あの頃の自分に戻れるのなら、もっと上手くやっていける。他のグループに属したっていいし、ナチュラルに「やめてよ〜」って言える。そもそも友人たちも嫌がることなんてしてこない。
あの年頃だったからこそ起きたこと。
あの時、もしも状況が少し違っていたら、私はもっと深く傷つき大人になってもその傷が癒えなかったかもしれない。事が大きくならなかったのは、大きくしなかったのは、当時の私の行動の結果。あの経験があるからこそ人間関係の学びを得れたし、本当に上手になったものだ。
あの息苦しさを無駄にしないためにも、記憶の片隅にそっと置いている。
今では本当の友情になった大切な人たちだけれど、あの時に友情が完成していたのかは未だ謎である。
中学生の頃なんてそんなもので、そしてそれは成長の糧になった。忘れたいけど忘れられない苦い経験。ようやく最近その記憶の蓋を開けて、「うーん、あの時の友人関係はちょっと私には複雑だったよね」なんて言いながら整理することができた。
また一つ、大人になったんだと思う。そんなふうにたまには苦い過去から学びながら、私は優しい大人を目指していきたい。
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