AIが台頭してきて数年だが、この先もっと速いスピードで色々な技術をこなすことができるようになるのだろう。
美術、音楽に文学、接客に介護など文化から生活に至るまで彼らの電子音が人類の営みに迫り来る。推しや恋人がAIだという人も既にいるかもしれない。

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彼ら無機物にできないことは、感情の奥深いやりとりだと思う。一度、小説を書くための参考にと簡単な文章をChatGPTに生成してもらったことがあった。
表現が歪でおかしくて残念ながら頼りにはならなかったので、小説の書き方の本を買って読み、ノウハウを吸収した。やはり大筋を学んだら己の力で書き切るしか道はない。

かがみよかがみを始めとしてエッセイを書く場合、AIに頼ったことは一度もない。エッセイというのは一番頼っても意味がないジャンルだと思う。自分の体験や感覚を脳から引っ張り出してきてある意味風呂敷を広げるのだ。
エッセイに書く体験というものは個人のものであって、私以外の誰にも書けない。同時にあなたが見てきたモノ・コトはあなた以外の誰にも書くことができないということである。

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ただ、今は低レベルだとしてもいつか芥川龍之介、川端康成、三島由紀夫の作品級の美しく文学的なセンスに溢れた文章を書き上げてしまうAIが登場してしまうかもしれない。
もし私が作成者なら、「みしまメーカー」とか「君もりゅうのすけ」とかいう名前をつけるだろう。

AIが進歩して人間の何もかもを上回ろうという時が来ても、自分の力で書いていたい。

AIが知らない単語の組み合わせとか、見たことのない景色とか、想像できないような感性を今のうちにバキュームで吸引して自分のものにしておかなきゃという、焦りに近い感覚が身体を支配する。

そうすると、オリジナリティって何だろうという課題にぶち当たる。

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今まで本を読んだり映画を見たりして吸収したものを吐き出す作業が執筆ならば、それもパクリとか盗用なんじゃないかと頭を悩ませたこともあった。

でも、「凡人は模倣し、天才は盗む」という画家・ピカソの名言や、椎名林檎氏の楽曲のフェイクも本物にしてしまえばいいという言葉に触れて、これでいいのだ!と自分を肯定するに至ったのである。
もちろんひらめきや天から降りてくるという感覚の時もあるけれど、大方は過去の名著・名作の吐き出し作業になってしまう。

物書きの端くれとして打倒AIするべく、自国を始めとした良い文化に触れなければいけないと思い、最近は以前に増して美術館や神社仏閣等に足を運ぶ頻度が増えた。
自分にエッセイストなどと大層な肩書をつけていいのかどうかは分からないが、最近はありがたいことに入賞するようにもなってきたのでお許し願いたい。商業出版してから名乗れるという古来からの決まりがあるのであれば、それはごめんなさい。カラオケでムーンライト伝説の「ゴメンね」の部分だけ何十回もリピートして歌うから許して。

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文章だけに関わらず表現をするということは、目に見えないものもよろず承ることだと個人的に思う。目に見えるものよりも見えないものの方が実は多い。人間にしか感じ取れない何かはこの世界にきっと存在するはず。
AIは、自然に対して畏敬の念を抱くのだろうか。生命に対して選民・優生思想を抱かず等しく慈愛に満ちた目線を持つのだろうか。
敬愛してくれる経済的AIが顕在化するならいいんだけどね(韻)。