「思い出のごはん」と聞いて、パッと頭に思い浮かんだのは、いつもよりちょっとしょっぱい醤油ラーメンだ。

◎          ◎

あれは私が小学校2年生か3年生のときだったと思う。私は、夏休みに水泳教室の体験に行った。経緯ははっきり覚えていないが、水泳の上手な学校の友達に憧れただとか、どうせそんな理由で母に行ってみたいとせがんだんだろうと思う。

教室まではバスが送迎してくれるシステムで、家の近所のバス停まで母に送ってもらった。当時の私には、ひとりでバスに乗るなんていう経験はほぼなくて、どこか得意げな気持ちで乗車したように思う。意気揚々と母に手を振って消えた私であったが、ひとりになると急に心細い。それが気のせいなら良かったのだけれども、いざ教室に着いてみると、私を待ち受けていたのは、悲しいかな、本当に恐怖と不快感、ただそれだけであった。

不慣れな場所への恐怖。水に濡れた何だか気持ちの悪いマット。ひそひそ喋り、部外者の私を品定めするような生徒たちの目線。高圧的な態度のコーチ。そして何より、全然出来ない自分。

プールの上には大きなガラス張りの窓があって、生徒の保護者はそこから教室の様子を覗けるようになっていたけれど、もちろんそこに母はいなくて、それも余計に私を悲しくさせた。

今でもその場面を思い出すと、そこはかとなく塩素の匂いが漂ってきて、鼻に水が入ったようにツンとする。

◎          ◎

赤くなった目と涙をプールの水のせいにしながら何とかその場をやり過ごした私は、再びバスに乗せられ、あのバス停で降ろされた。

迎えにきていた母が笑顔で

「どうだった?」

と聞く。

「あの…あのね…

瞬間、涙がぽろぽろと溢れて止まらなくなった。
言葉が続かない私を見て、母はそれ以上何も聞かず、私を連れてさっさと家に帰った。

◎          ◎

家に帰ると、母はキッチンに立つ。
何も食べたくないけどなぁ……と思いながらぼーっとしていたら、数分して私の前に丼が置かれた。それは、具のない醤油ラーメンであった。醤油ラーメンというか、茹でただけの袋麺である。

私は、黙ってそれを啜った。

啜れば啜るほど、涙が出る。
ぽたぽたと涙がラーメンに落ちて、湯気と涙の奥に、母のやさしい顔が見える。

涙は止まらない。鼻水も出る。
でも、おいしかった。

やるせなくて、切なくて、温かい。
いつもよりちょっとしょっぱい醤油ラーメン。

お腹は空いていないと思ったけれど、気がつけば全部食べていて、食べ終わった私は、もう泣いていなかった。

◎          ◎

大人になって、綺麗な夜景の見える素敵なレストランにも行ったし、回らないお寿司も食べた。

だけど、私にとっての「思い出のごはん」はどうしても、この夏の日の、温かくて切ない、ちょっとしょっぱい醤油ラーメンである。

いつの日か、これを超えるものを食べてみたいような気もするが、これを超えるものは一生ないような気もする。

ひとまず、今のところはあの日の私に、こう言ってあげたいと思う。

「大丈夫。これから生涯で一番おいしいラーメン、食べられるからね」と。

あぁ、それからもうひとつ。

「泳げなくても、人生、全然大丈夫!」と。