助け合い必須の地震大国で、私たちが希望を失わないためにできること

2024年の1月1日に、私の家族や親族が暮らす地域で、大地震が起こった。幸いにも、能登に比べると地震による影響を受けなかったというが、金沢でも大きく揺れ所々で建物の被害はあったと聞く。
私はその場にいなかったため当時の様子をあとから聞くことしかできなかった。実家に帰ってきて家族や友人、知人から話を聞くうちに、地震直後は相当な状況だったのだと想像できる。
そんな能登を訪れることになったのは、同年の11月、研究室の活動を見学するためだった。そこは仮設住宅に暮らす人のいる地域で、大学の研究室で行っていたワークショップに参加した。
そして私は明後日、再び能登へ行く。今度は別の地域でワークショップを開く。今回のワークショップは複数の大学が共同で行う大型プロジェクトで、中には東京から来てくれる大学生もいる。
私の出身は能登ではないが、小学校の遠足で水族館に行ったり家族でキャンプに能登に来たりだとか、輪島の白米千枚田を見に行ったりと能登には何度か行ったことがある。私の祖母は奥能登で生まれ育ち、家には何人もの兄弟がいたという。祖母の子ども時代、戦後まもない能登の地には多くの子供でにぎわっていたのだろう。祖母の町には能登の人が大切にしていた「まつり」が開かれ、祖母が慕っていた兄は笛が得意だったのだと話を聞かせてくれた。今はもう、人がいなくてまつりが出来なくなってしまったとも聞いた。
震災の後、祖父が祖母を能登に連れていき、被害を受けた家の様子を映したビデオがある。現在は誰一人住んでいない古いままの木造家屋で、倉庫はつぶれていたがかろうじて家は残っていた。しかし、その後の夏の豪雨で家まで続く道もくずれ、どうにもたどり着けなくなってしまったらしい。もう二度と、祖母は生まれ育った家を目にすることはできなくなった。きっと今後道路の修繕もされないだろうと思うと、やるせない気持ちになった。
4ヶ月前に訪れた輪島の被災者たちは、なんとか生き延び懸命に生きていた。仮設住宅では十分に満足できないのだろう。それでも住民たちは笑って明るい未来が来ることを心から望んでいた。過疎化が進んでいる能登の復興は現実的には厳しいのだと思う。しかし、住み慣れたあの土地で元の生活をしたいと、人々は切望している。ハード面でのサポートは私たちには難しいかもしれない。しかし、話を聞くことで気持ちが落ち着くこともあるのかもしれない。彼らの記憶の中に刻まれた思い出は、一つでも欠けてはいけない価値あるものだ。今回のワークショップで、家は失ってしまったけれど、彼らの内側に宿る炎はまだ消えてはいないのだと、そう伝えられたらいいなと思う。
避難所での生活環境は、人々は寒さと戦わなければならなかったりと、とにかくひどかったことも調べた。当時のことを知れば知るほど、事態の深刻さを実感する。私の卒業研究では、災害時の避難をテーマとして扱う予定だ。地震大国のこの国に住むということは、住民同士で助けあうことからは逃げられない。だからこそ私たちは、震災後のスムーズな支援体制を整え、彼らの希望になる必要がある。
ボランティアや教育機関など、能登のために今日も全国の人が祈り支えてくれている事実は本当にありがたいと思う。私も、私にできる限りのことをやってみよう。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。