心動かす実家の味。ママが作る「名前のない料理」が一番心に染みる

私のママが作る料理は名前のない料理が多い。例えば、「ミンチと卵を絡めたやつ」「お好み焼き風」など。名前のある料理とは、カレーや肉じゃが、オムライス。
でもママの手料理で「これ美味しい!」と思わず言ってしまうものは大体「名前のない料理」の時が多い。
そんなときの私とママの二人の会話は決まっている。
「これ美味しい!」「どれ?」「なんかお肉とにんじんとかが入っているやつ」と見たままのものを言うと「えーそれなの?それ、なんでもないやつよ、適当に炒めたやつ」そう、その適当に炒めたやつが美味しい。
でもその適当はママにとっては本当に適当に作ったのかもしれないけれど、私が適当に炒めても同じ味にはならない。だから、ママの作る名前のないなんでもない料理が良い。単純においしいし、いわゆる実家の味って感じもする。
私はママみたいに適当に作って美味しいものは作れない。レシピ通りきっちり作る。というか、それしかできない。冷蔵庫にある物で適当になんてかっこいいことできない。ママも適当に味付けをしていて、覚えていないらしい。
ママの料理を真似しようとしてもできないのが「名前のない料理」の素敵なところ。
大学生の頃、ママが作った「ただ長芋を焼いただけのやつ」を食べながらボロボロ泣いたことがあった。
その日は、生理前でイライラしたり大学で上手くいかないことが重なったりして気分がすごく落ち込んでいた。心が疲れ切った状態で家に帰ってきて、いつものように動画を見ながら当たり前のようにママのご飯を食べていた。
段々、動画の内容が頭に入ってこなくなって、今日上手くいかなかったこととか色々思い出して感情がいっぱいになって溢れそうになって、気づいたら「ただ長芋を焼いただけのやつ」を食べながら号泣していた。
いっぱいいっぱいになってしまった心にママの料理がとても染みた。そして、また気づいたらママに泣きついていた。この時もママは「そんなんで泣いてくれるのー」と少し困り笑いをしながら「ただ長芋焼いただけやのにー」と言っていた。それだから良いんじゃん、それだから涙が出たんじゃん!って心の中で思っていた。
でもこの時にちゃんと言葉で「あの長芋のやつ食べてたら、おいしくてその味がなんか染みてきて泣いちゃった」って言えてよかったなと思う。ママも「私も泣けてくるやん」って言いながら慰めてくれたあの時間は、まさに食べることと生きることを繋げてくれた時間だった。
この時以来、ご飯を食べて泣くという経験はしていない。あの時のメニューがカレーやオムライスでは泣いていなかったんじゃないかな。「ただ長芋を焼いただけのやつ」だったから心が動いて感情が溢れたんだと思う。
この経験をしてから、食べることは心への栄養素でもあることがとてもよく理解できるようになった。お腹が空いていなくてもなんとなく心がモヤモヤ、ざわざわしたら何か一口食べるとほんの少しスッキリする。だから食べることは、心を生かすことだと思う。
いつか私も名前のない料理を作って自分の子どもに「これめっちゃおいしい!なんていう料理ー?」と聞かれて「えー名前なんかないよーお肉とお野菜のゴロゴロ炒め的な?」「なにそれーでもおいしー!」そんな会話ができるといいな。
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