万年腹ペコ従妹姉達とのサバイバルで取り戻した、人間本来の食べる力

腹が減っては戦はできぬ。
私は衣食住の中で、とりわけ食に対する優先度がかなり高いほうだ。
でも最初からそうだったわけじゃない。こう考えるようになるまでに、それなりに紆余曲折した経過がある。
小さい頃は食が細くて、「お子様用」として用意された、食事というより食べ物のかけらのようなプレートすら、完食できないようなタイプだった。
その胃の大きさのまま、小学校に入ったときは地獄だった。
今では考えられないようなことだが、20年前の小学校にはかなり厳しい先生がいて、給食の時間を過ぎても、昼休みや5時間目になっても、食べ終われない子の食器をそのまま下げずに完食させるという文化があった。
みんなが教科書とノートを開いている時間に、取り残されたオセロの石のように、私の机には給食が残されていた。屈辱だった。
本人の心境的には、目の前にいっぱいに用意された食べ物たちが発する「さあ食べろ」という無言の圧に気圧されているような感じ。
食べることが好きだなんて、お世辞にも言えなかった。
それどころか、誰かと食事すると、自分だけ箸が遅くて取り残されることが恐怖だった。食べるのが遅いと思われたくない。気を遣われたくない。そういう負の感情に、支配されながら毎日を過ごしていた。
高校の頃に地元に戻り、私は歳の近い従姉妹たちと、姉妹同然に毎日をともに過ごすことになる。
従姉妹たちは、毎日放課後に部活に通って、万年腹ぺこの状態。
一緒に食卓につくと、見るも鮮やかに次々に皿が空いていく。
「ほら、早く食べないと、食べちゃうよ?」
もはや、食うか食われるかのサバイバルだった。
少しずつだが、姉妹に感化されて食べる量が増えた。食べられなかったらどうしよう、そう考えるよりも先に、手をつけて口を動かす。そうしていると不思議と食べられるようになった。
「女の子は上品に、綺麗に食事しないとね」
幼い頃に耳にタコができるほど聞いた、そんな親の言いつけは一旦忘れて、とにかく目の前の「美味しい」を自分のものにすることに集中した。
人間に本来備わっている生きる力を、やっと取り戻したような心地だった。
大学で一人暮らしを始めて、自炊せざるを得ない状況になり、好きなものを作って食べることの楽しみを覚えた。スーパーで今日は何が安いかを見て、冷蔵庫の中のものとパズルのように献立を組み立てる作業が好きだった。
例えば、「お、今日は鶏ももが安い。そういえば使いかけのトマト缶があったんだった。特売のエリンギとズッキーニを添えて鶏のトマト煮込みにしよう」そんな具合。
食べたものはそのまま身体に表れる。
なんとなく元気がないなと思ったら野菜が足りていないことが多いし、調子がいいときは、そのとき身体に必要なものをきちんと摂れているときだと思う。30歳を目前にして、最近やっと、今の自分に必要な栄養素を見極めて食べることができるようになってきた。
どんなに忙しくても食事だけはちゃんとする。一度、過酷な労働に時間を割くばかりに、おざなりな食生活をしてそのことの大切さが身に沁みているから、これだけは譲れない。
食べることが怖かった、幼き日の私に伝えたい。
生きるために絶対に必要なことならば、どうせなら楽しもう。
私は、人生の食事回数88,000回分の1を、今日も妥協しない。
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