母が大きな病気をしたのは、私が中学3年生の15歳の時だった。

それは突然のことだった。私の父は単身赴任でほとんど家にいなかったので、私と母の二人暮らしの生活は大きく変わった。家の中から、母がしていた“当たり前のこと”がすっぽり抜け落ちた。

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その中でも特に感じたのが、食事の存在だった。母は専業主婦で、朝食も、お弁当も、夕食も、いつも当たり前のように作ってくれていたが、それがなくなってみると、どれだけ手をかけてくれていたのかを初めて痛感した。冷蔵庫の中を開けて、なにをどう組み合わせればいいのか分からずに呆然と立ち尽くしたこともあった。レシピを見て挑戦しても、濃すぎたり、味気なかったり、野菜が固かったり、肉が生焼けだったり……料理は思っていたよりずっと難しくて、時間も手間もかかって、毎日続けることの大変さを知った。 

母は長期入院が必要で、免疫も落ちていたので、外出もほとんど許可されていなかった。体調の悪い日はベッドに横になったまま一日が終わる。調子の良い日でも、担当の先生に許可をとって、院内のコンビニに行けるのがやっとだった。そんな入院生活の中で、唯一の楽しみが1日3回の病院食だったらしい。でもそれが、全く美味しくなかった。

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彩りもバランスも、味のバリエーションもない。母はもともと、和洋中をうまく組み合わせて、家族の好みを考えながら毎日献立を作ってくれていた。だから、なおさらつらかったと言っていた。
私も病院に行ったとき、少しだけ食べさせてもらったことがある。学校の給食みたいなものかと思っていたが、正直かなりまずかった。特に忘れられないのが「ロールパンと焼き鮭とお味噌汁」という、ちぐはぐな組み合わせ。食べながら、母はずっとつらい治療を続けながらこんな味気ない食事をしているのかと思ったら、とても悲しくなった。

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そんな経験から、私は将来、母のように美味しいご飯を当たり前に作れる人になりたいと思うようになった。誰か大切な人が病気になってしまったとき、きちんと相手に寄り添った栄養のあるものを作ってあげられる人になりたい。

その思いが、栄養学を学べる大学への進学につながった。専門的な知識を学び、管理栄養士の資格も取得した。今はまだ母親ではないけれど、料理をすることが大好きで、大切な人に夕食を作ったり、一緒に料理をしたりしている。母のようにバランスのよい彩りも大切にした食事はなかなかできないが、相手の好みの食材や味付けを考えて、料理としてふるまえるのはとても嬉しい。冷蔵庫にある食材から、「今日は暑かったから、さっぱりしたメニューにしよう」とか、「いつもより遅い時間の夕食だから、短時間でできてボリュームのあるものにしよう」とか、私はそんなことを考えている時間が好きだ。 

誰かのために料理を作ることは、その人への思いやりを形にすることだと思う。
母がくれた「当たり前の食卓」は、きっとたくさんの愛情と努力のうえに成り立っていた。あのときの入院生活が、私に大切で温かい感情を教えてくれた。