初対面の人とご飯を食べるのが好き。美味しそうに食べる顔が素敵だから

私たち人間が心も身体も健康に生きていくうえで、食べることは欠かせない。しかし、ただ食べ物を食べるだけではなく、どこでどんな人と何を食べるかによって、味わうという楽しみが、生きる喜びを与えてくれている。
食べることは生きること。生きることは食べること。
このように書いてみると、食と生は繋がり続け、私たちに生きる意味を考えさせる営みでもあるはずだ。朝、昼、晩、と食べることは健康そのものである。
今日も健康だ、と胸を張って感じられる瞬間は、やはり自分にとって美味しいと思うものを大事な人と食べたときだと私は思う。美味しいものというのは、直感で思い浮かぶが、大事な人って具体的にはどんな人物だろうか。家族、友人、恋人、仕事仲間とか。この枠みたいなものに、おさまることのない人だとしても、美味しいものを一緒に食べると「大事な人」になっていくのではないだろうか。
そう私が考えるには、深い訳がある。深い、と表すには大げさかもしれないが、なかなか他人には理解されにくい感じ方とも捉えられるからこその深い、という意味なのだ。
初対面の人と向き合って、もしくは隣に座ってご飯を食べることを好んでいた時期がある。人見知りで内気な性格である私が、どうして初対面の人とご飯を食べられるのか?と不思議で仕方ないと自分でも思うのだが、これは食の魔法のせいなのかもしれない。
もう十代の頃の話であるが、他校の方と交流する機会に足を踏み入れた私は、初対面の人と話すことが好きだということを思い知ったのである。なぜかよくわからないけれど、お昼の時間になって、その日初めて会った人が、持参したお弁当を美味しそうに食べている姿を見ると、幸せな気持ちになった。この人って、ご飯を食べるとき、こんなに幸せな顔をするのだ、と気づけば引き付けられていたし、普段なら全くしない行動をとってしまいそうだった。
「隣いいですか?私もお腹空いたんで、ご一緒に、ダメですか?」なんていう言葉が喉に引っかかって、その人の隣に座りたい、一緒にご飯を食べたいと必死に思った。まるで食が人間性をも変えていくようだった。何かが私の背中を押しているみたいだった。その何か、というのは食を通して、まだ深く知らないけれど同じ場所で同じときを過ごしている人と、仲良くなりたいと感じることだといえる。
もちろん一人で黙々とご飯を食べる時間も嫌いではないが、そのときは本当に食べることって幸せを象徴する行為なのだと、あらためて実感したのだ。
そして、そう感じるうちに、初めて会った人のことをもっと知りたくなった。何が好きで、学校ではどんな風に過ごしているのだろうか、優しそうだなあ、とか。隣にいられるだけで幸せだった。
そう思い始めた私は、食べるという何気ない日常生活の一コマが、人と人の距離を自然と引き寄せていくのだということに、驚きと感動を覚えたのだ。まさか、こんな風に誰かと出逢って、そのうち家族になっていくことが、生きる喜びであり、人生そのものなのだということを、十代で知ることになるとは予想外の展開であった。
それでも、やはり大事な人と過ごす時間のなかに、食べるという幸せそのものを噛みしめる行為があるということは、生きている証拠に変わりない。私たちは今も昔もただ食べることを、生きるためにひたすら繰り返している訳ではない。たとえば、この人と絶対食べたい、と思うだけで、素朴な味つけのご飯でも、塩辛い料理でも、「美味しい、生きていて良かった」と実感できるはず。
この先、どこで、どんな人と出逢うかわからない人生に、食べることが生きる喜びを与える限り、幸せは誰にでも平等に保証されていると私は思っている。
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