「いただきます」

手を合わせるその瞬間、私はふと立ち止まる。

目の前の料理が、どうやってここに辿り着いたのか。誰がどんな気持ちで作ってくれたのか。そして、なぜ私は“食べること”がこんなにも好きなのかを、自然と考えてしまう。

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私にとって、食べることは日常であり、楽しみであり、生きている実感そのものだ。

思い返せば、子どもの頃から食べることが大好きだった。小学校の給食は、毎日のささやかな楽しみだった。白いエプロンをつけた給食当番の子たちが教室に入ってくると、心が弾んだ。クラスの中には好き嫌いで食べ残す子もいたけれど、私は一度も食べ残したことがない。どんなメニューの日でも「美味しそう」と自然に思えたし、実際に食べてみれば、どれもそれぞれに美味しさがあった。

私は好き嫌いがまったくなく、どんな食べ物でも美味しくいただくことができた。それが、食べる楽しさを一層豊かにしてくれていたように思う。

なぜ私はそんなに素直に食べることができたのか。それはたぶん、家庭での食卓に理由があると思う。

私の母は、特別なシェフでもなければ、凝ったレシピを披露するタイプでもない。けれど、母が作る料理はどれも心にしみるような優しさと温かさがあった。肉じゃがのほんのり甘い味、お味噌汁の出汁の香り、休日の朝に焼いてくれるホットケーキのふわふわ感……どれも、私の記憶のなかで鮮明に残っている。

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「今日もちゃんと食べてくれて嬉しいわ」と母が微笑んでくれたあの言葉が、今でも胸の中にある。
料理というのは、単なる作業ではないのだと思う。母の手から生まれる料理には、「あなたの健康を願っています」「今日も元気でいてね」という想いが、そっと添えられていた。その想いを、私は自然と受け取っていたのだと思う。

そして今、私はふと想像する。
もし私が将来、子どもを持ったなら。その子に食事を作る日が来たなら。私は母がそうしてくれたように、日々の食卓を大切にしたいと思う。「早く食べなさい」と怒るのではなく、「美味しいね」と笑い合える食事の時間を作りたい。料理を通して、愛情や安心感を伝えたい。
そうやって命はつながっていくのだと思う。母から私へ、そして私からまた次の世代へ。
「食べることは生きること」という言葉の重みが、年齢を重ねるにつれて、少しずつ心に沁みてくるようになった。

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現代では、食べることにあまり時間をかけない人も多い。忙しさや利便性を理由に、コンビニやファストフードで済ませてしまう食事。

でも、どんなに忙しくても、一日に一度でもいいから、心を込めて作られた料理を味わい、感謝して食べる時間を持ちたい。そうすれば、私たちはもっと自分の命を大切に感じられるのではないだろうか。

食べるということは、誰かの命をいただくことでもある。野菜も魚もお肉も、生きていたものの命を、私たちは体に取り込んでいる。だからこそ、「いただきます」と手を合わせる意味は深い。命に感謝し、作ってくれた人に感謝し、自分が生きていることに感謝する。そのすべてが、食事という行為のなかに込められているのだと思う。
私はこれからも、食べることを大切にしていきたい。どんなに年を重ねても、食べることを楽しみ、感謝し、喜びとして感じていたい。そして、いつか誰かのために、美味しい料理を作れる人になりたい。私が母から受け継いだものを、次の誰かに渡していくために。
食べることは、生きること。その言葉の意味を、これからもかみしめながら生きていきたい。