目玉焼きが嫌いだった。

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外はカリカリ、黄身までしっかり火が通っていて、端だけが黒く焦げている目玉焼き。
それは決まって、単身赴任で普段いない父が、家にいる土日の朝にだけ、食卓に並んだ。

朝食の時間。
会話自体はあったけど、ぎこちなかった。

母とふたりで食べるときの、あの柔らかな空気とはまったく違う。
言葉よりも沈黙の方が、ずっと強くテーブルに居座っていた。

家族なのに、父はどこか他人のような存在だった。
普段はほとんど家にいなくて、金曜の夜に帰ってきては、静かな雷みたいな気配を落としていた。

声のトーン、まなざし、間――。
小学生だった私は、それを読み取っては、ぴしりと背筋を伸ばしていた。

私はいつも父と目を合わせないようにうつむいていた。
代わりに、じっと見つめていたのは目の前の目玉焼き。
その見た目と味だけが、今もはっきりと記憶に残っている。

だから私は、大人になってもずっと、目玉焼きが嫌いだった。

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「卵料理、何が好き?」

そう聞かれると、スクランブルエッグやオムライス、だし巻き玉子を挙げる。

目玉焼きなんて、食べたくない。
せめて出すなら、黄身は半熟にして欲しいと、中学生になった私は母に頼んでいた。

それでも、目玉焼きの端のカリカリが、あの気まずい朝食の空気を彷彿とさせて嫌だった。

誰かが食べているのを見ても、特に何も感じなかった。
ただ、私の中ではずっと「避けるべき存在」だった。

それは、目玉焼きだけに限らない。

父は、私が中学生になっても、高校生になっても、大学生になっても、会社の命令で各地へ単身赴任していた。
毎日一緒に暮らすことはほぼなく、私と父の距離が縮まることもなかった。

そんな寡黙な父のことを、私はいつしか目玉焼きと同じように、理由もなく「好きじゃないもの」として避けるようになっていた。

気づけば、ずっと父のことを避けていた。

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そんな私が、また目玉焼きを口にするようになったのは、本当に最近のこと。
昨年、結婚してからだった。

旦那は卵が好きで、朝ごはんはたいてい、旦那の作った卵料理が並ぶ。
私のお皿にはスクランブルエッグ、旦那のお皿には目玉焼き。
いつも旦那は、それをおいしそうに食べていた。

ある朝、旦那のお皿にちょこんと乗った目玉焼きを見て、ふと「食べてみてもいいかな」と思った。

その気持ちを料理担当の旦那に伝えると、彼は卵をハムと一緒にしっかりと焼き、しょうゆと塩コショウをちょんちょんとかけ、次の朝ごはんにそっと出してくれた。

白身のふちはカリッと香ばしく、黄身はしっかり火が通った、優しい黄色の表情をしている。
フォークで切って、ハムと一緒に口に運ぶと、塩気と卵のまろやかさがじんわり広がって、食欲がすすむ。

「あれ、案外いけるかも?」

そんな、のっそりした感想を口にして、私は目玉焼きを食べ終えた。
旦那は「うん、よかったじゃん」とだけ言って、特に驚くこともなかった。

でも、それでよかった。
静かな変化は、静かに受け取ってもらうくらいが、ちょうどいい。

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大人になって、旦那と暮らし、毎日ふたりで食卓を囲むようになって。
私はいつのまにか、「家族」というものとの距離感を、少しずつ変えていったのかもしれない。

父に対する見方も、ほんのすこし変わった。

家族になりきれなかった父も、私との関係づくりに、密かに悩んでいたのかもしれない。
そんなふうに思えるようになった。

いまの私は、その日の気分で、好みの焼き加減と味付けで目玉焼きを食べることを楽しんでいる。

それだけのことが、なんだかすごく自由な感じがする。

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目玉焼きが食べられるようになって、変わったのは卵の味じゃない。
私の心のほうだったと気づいた。

味は、記憶と心でできているのだと、そう実感した。
そして私は、ようやくその味を、自分のものとして受け入れられた気がする。