「キャラじゃない」それは私自身が生み出した幻想なのかもしれない

昔、私のクローゼットにスカートがあった記憶がない。幼いころはそれをおかしいと思っていなかった。でも、段々とおしゃれに興味が出てきた頃から、スカートは私の中では「特別」の象徴に変わっていった。
中学生あたりになった頃だったか、世間一般的にもおしゃれに興味が出てくる時期になる。例にもれず、私もそうだった。制服は当たり前にスカートをはいていたけれど、私服としてのスカートは持っていなかった。「学校の決まりだから着るスカート」と「自分から選んで着るスカート」は意味合いがかなり違う。
ある日、友達と休日に遊びに行くことになった。交友関係が広くなかった私にとって、これは一大イベントだった。そうとなれば、やっぱりおしゃれがしたい。ならスカートだ!勇気を出して親に交渉し、買ってもらった。そこまでは何とか勢いで行けたが、いざ自室で着替えて、鏡を見る。見慣れない自分の姿に似合ってないんじゃないかという気持ちが巡った。家族がいる階下に降りていくことにも妙に緊張していた。足音を立てないようにそっと降りると予想通り「気合入ってるじゃん~」的な視線を感じた。居たたまれないというか、「私だってこんなの柄じゃないってことわかってるよ」と叫びたい気持ちだった。
けれど、一つしっかりと明言しておきたいことはこの場面においては誰も悪者ではないということだ。しいて言うなら、この場面での悪者は私自身だ。
兄弟からしてみれば何の気なしの物珍しさ、親からしてみれば大人に近づくような見た目になった娘に思うことが様々あったのだろう。至極当たり前でおかしなことではない。だけど当時の私は残念ながらそこまでの思考が及んでいない。蓋をしていた「自分を冷やかす自分」の存在を掘り出される感覚がして、ただただ自分の中で勝手に増殖するいたたまれなさが私の中に澱のようにたまっていった。
それから数年たって、私はあるワンピースに目を奪われた。さわやかな水色のストライプ柄でひざ下あたりまでの丈があり、腰の位置でリボンを結ぶ、ふんわりとしたAラインのワンピース。一目見たときに「着たい」と思った。でも手を伸ばした時によぎった。「キャラじゃない」「着てイメージと違ったらどうするの」「周りの人どう思う?」一瞬にして視界がくすんだ。店内のほかの商品を見ているようなふりをしながら、当てもなくぐるぐると歩き回ってみた。「どうしても欲しい」これしか浮かばなかった。
「どうせ買ったのだから日の目を見せてあげなければ、この服がかわいそうだ」「もうすぐ暑くなるから、もたもたしていたら着られなくなる」思いつく限り、自分以外のすべてに責任を転嫁して、そのワンピースを着て、大学に行った。
相変わらず居心地の悪さは消えない。そのとき大学で仲良くしてくれている友人に会った。彼女の人柄が良いことなんて百も承知だったし、否定しないことだってもうなんとなくわかっている。わかってはいるが、「おはよ~」と言った後の私を見る視線の動きが気になって仕方がなかった。「今日いつもと雰囲気違うね!かわいい~!女子アナみたい!」まさか自分に「女子アナみたい」なんていう形容詞が付く日が来るとは。いろんな気持ちがごちゃごちゃになったが、紙一重で勝ったのは「嬉しい」だった。
現在、私のクローゼットにはスカートもワンピースも着々と数を増やしている。でも、今までの癖がそう簡単に抜けることもなく、今でも気合が入る日は無条件にスカートを選んでしまう。裾を翻して歩くことでなんだか背筋が伸びる。
思えば、私は他人が着ていた服のことはほぼ覚えていない。それと同じように私が何を着ていようと覚えている人なんてほぼいないんじゃないか。私が苦しんでいた「私のキャラ」だって、それはもしかしたら私自身が生み出した幻想なのかもしれない。とはいえ、他人の目を完全に気にしないなんてこと不可能だし、「自分を冷やかす自分」もそう簡単には消えてくれない。難しいのはわかっちゃいるけど、うまく折り合いをつけて生きていきたい。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。