小学校の卒業式に選んだのは黒いスーツ。自分の意志を表現したかった

「マイケル・ジャクソンみたいで素敵ね」そう言われたのは2013年3月、小学校の卒業式の日だった。
卒業生72名が精いっぱいおめかしして、親や先生に小学生として最後の姿を見せるハレの日。私は女の子の中でただ一人、マイケル・ジャクソンの代表曲「ビリー・ジーン」のような姿で卒業式に参加した。
当時は極彩色の袴か、AKB48を想起するチェック柄のスカートにリボンタイが卒業式の鉄板。笑顔が光る可愛い子も、本が似合うおしとやかな子も「卒業式といえばこれだよね」と口を揃え、迷いもなく着ていた。
だけど私は違った。ブラックのセットアップスーツに、シルバーのスパンコールが映える真っ白なシャツ。足元はお気に入りのブーツ、マイケル・ジャクソンの代名詞ともいえる黒いフェルトハットは、思い入れのあるダンスの衣装だった。
なぜそれを着ていったのか。それは「私の輪郭を際立たせる最後のチャンス」だったからだ。
中学生になったら、紺色のセーラー服に染められてしまう。着たい服を着られる“猶予”が、この卒業式しか残されていないと感じていたのだ。
クラスには、リボンやハートを心のままに身に付けて、AKBごっこをしている女の子たちがいた。楽しそうだったけど、みんなが“同じ”に見えていた。ふわっと広がるミニスカート、健康的な足に映えるニーハイソックス、定番だけどその型にはまりたくなかった私は、日常でもメンズ物をよく着ていた。
袴やAKB48風の晴れ姿を見せる手段もあったけれど、自分で何度も考えた結果、私は誰も着てこないであろうスーツを「小学生の最後の自分」の姿として選んだ。
今でもあの日の朝を覚えている。鏡の前で全身を見たとき、式を控えた緊張よりも「周りに何て言われるか」という好奇心の方が勝った。イレギュラーな服装であることは分かっていたし、式中は外してしまう帽子をわざわざ被っていったのだ。 そんな自分を「かっこいい」と思っていた。ジャケットの襟を整えたとき、自分の見た目に少しだけ誇りを持てた瞬間だった。
その後髪型を整えて、持ち物を確認して、「そろそろ行くね」と家族に声を掛けた。すると、母が鏡台へ向かい、短冊のような箱を出してきた。
「これ、あなたにプレゼント。6年間よく頑張ったね」
箱を開けると、そこには小さな蝶がいた。ファッションには無頓着と思っていた母が、Anna Suiのネックレスをくれたのだ。
ブランドのアイコンであるバタフライがモチーフになっており、少女性と魔性が折り重なったミステリアスな紫色をしていた。そのネックレスを母に身に付けてもらい家を出た。最後の通学路で感じた首のくすぐったさは、喜びだけではなく、胸元の蝶の羽ばたきだったかもしれない。
式を終えた帰り道。「かっこいい」「きまってる」など、言われた言葉を反芻し、朝の好奇心を満たしていた。
レールから外れても自分の意志を諦めなかった卒業式で、「着たい服を着る」ことは「自分の存在を表明する」ことなのだと実感した。
この先、意志に妥協しなければならない瞬間は何度も訪れるかもしれない。その時は、母がくれた蝶のように、しがらみの繭を破って自分のために羽ばたいていきたい。
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