肉厚まぶたを気にし続けた私。母になり気がついた、本当の美しさ

「なんでそんなにまぶたが腫れぼったいの?」
そう言われるまで、自分のまぶたが他の人よりも腫れぼったく、厚みがあることを知らずに過ごしていた。それ以来、鏡に映る自分のまぶたをまじまじと見たり、他の人のまぶたをチラチラ見て比較したりした。周りの友達や家族、テレビの中の芸能人に至るまで、あらゆる人のまぶたをじっと観察。確かに私のまぶたは厚みがあり、しかも奥二重であることに初めて気付いた。
正直、男子からその一言を言われるまでは自分の顔は嫌いではなかった。だけど、いわゆる可愛いと人気のある芸能人の顔をみると、みんなパッチリ、くっきりとした二重の瞳。漫画に出てくる主人公もおめめが大きくキラキラ輝いていた。
だけど私は、まぶたの腫れぼったい奥二重。その事実を知った時、“自分の顔はダメなんだ!可愛くないんだ!”と思った。それからというもの私は、自分の厚みのあるまぶたをスッキリさせたいとマッサージをした。腫れぼったいまぶたのお肉を、少しでもほかの部分に流し、移動させたかった。
自分の顔に一度疑問をもち、嫌だと感じると、不思議とそこにばかり目がゆく。そこが他の人よりも劣っている弱点のようにも見えた。
10代20代の年頃にもなると更に外見、容姿が気になりだした。世間一般に可愛いと評判の芸能人や人気のあるモデルさんは、お人形のようなパッチリおめめの人ばかり。いつしか私も、そんな風になりたいと憧れた。メイクで瞳を大きく見せたり、スッキリとしたまぶたになるアイシャドーをぬったり、アイラインを入れたり、マスカラをボリューミーにつけたり。目元だけではなく、黒髪を茶色く明るくして、髪をクルクル巻いた。肌も白く、パールでキラリ光るように見せたり、頬にピンクのチークを入れてみたりとあれこれ試行錯誤。その頃はメイクで自分のコンプレックスを隠そうとし、少しでも可愛くなりたいと必死だった。
そんな私も結婚をして子供を産み母となった。生まれたばかりの我が子は天使のように可愛い。肌、髪、瞳と全てが澄んでいて穢れがない。こんなに赤ちゃんは無垢で美しいものなんだと感動した。娘も私と同じくまぶたが厚めではあるけれど、とても可愛かった。無邪気に笑う笑顔も愛らしく、愛おしかった。主人も娘のことが可愛くて仕方がないようだ。
その時、“ああ、そういう事なんだ”と感じた。
私があの一言を男子から言われるまでは、自分の顔が嫌いではなかった理由。まぶたが厚めで腫れぼったい私を、両親は“可愛い可愛い”と育ててくれた。
今、私はアラフォーに突入し老いへの恐怖が生れつつある。でも今度は無理に抗うのはやめた。どう頑張っても年齢を重ねれば肌の質感や体型の変化はやってくる。生まれたての赤ちゃんを見れば一目瞭然。それに全員の人に“可愛い”と思われる必要もなく、自分が大切だと思う人だけ、そう思われれば十分だから。そしてなにより今は、子供のために体によいことをしたい。体にいいものを食べて、たっぷり睡眠をとって、楽しく体を動かし、たくさん笑いたい。
若い頃のようにマイナスばかりに目を向け、そこに引っ張られるのは、疲れてしまうから。
だから今は髪のカラーをやめ本来の黒髪にし、髪そのものの手入れをする。メイクも引き算方式で出来る限りナチュラルにし、素肌の美しさを目指す。そして外見よりも内面を磨きたい。内面の美しさには、まだまだ伸びしろがあるからだ。実際に年齢を重ねても笑顔の素敵な人はやっぱりキレイ!イキイキとした笑顔で、何事にも楽しむ姿勢は魅力的!私も割とそこは得意分野なのだ。だってこの年になっても好奇心だけはあり、負けず嫌いが功を奏し、向上心に繋がっている。
ちなみに腫れぼったかったまぶたは、年齢を重ね以前よりはスッキリした。肉厚であるからこそまぶたが老化でくぼみにくい。でも今は、それはどうでもいいこと。パーツ一つとるのではなく、その人全体の雰囲気がきれいな人を、今の私は美しいと思うから。
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