何かの情報を発信したり、何かの情報を受信したり
自分のためにSNSを始めたはずなのに、いつの間にか他人の目が気になり、いいねに飢え、いつしか現実の自分とSNS上の自分の乖離に苦しみ、消える。

最初の楽しかった頃と今は何が違うのか、それとも何も変わらないのか。
そもそも自分のために始めたということすら違うのではないか。
SNSに滅多に投稿しない自分ですら持つ、SNSに関わる全ての人が持っているであろう共通の価値観が存在すると私は信じている。

自分の好きなことを発信しているだけ、そんな純粋な人間はいない。
私たちはいつだって大なり小なり他人に認められ、存在価値を問う生き物である。
それを手っ取り早く、簡単に手に入れるための手段、それがSNSなのである。

◎          ◎

私が現在所持する、SNSアカウントはまとめて4つ。
表立って動いているのは本当に仲のいい友達にしか公開していないアカウントと、表面上は自己満足のために運用している空の写真を投稿するアカウントの2つである。
自分に起きたいろんなことを人と共有して理解し合うのが大好きな私。
現実でも起きたことを同期や先輩に共有しては話の種にしている。

かつてはSNS上でもちょっと身の上話を呟くのが好きで頻繁に投稿をしていた。
しかし現在、友達に公開しているアカウントではほとんど自分から発信することはなく、見ることが専門になっている。
本当は自分が投稿してそこで満足しておけばよかった。

しかし、実際は誰かにその出来事を承認して欲しくて、共有している感覚を味わいたくて投稿していた見返りを求めていたのだ。
投稿する中身によっていいねの数が変わり、いいねが貰えそうなことばかり頻繁に投稿するようになった。
本当はそんなことよりもっとくだらなくて、水のような軽く流し込めるものを投稿したいところでも脂っこいフライドポテトのような濃い内容を投稿する。
そして思ったより反応が悪いと、自分が本当に投稿したいと思ったものじゃなかったのにとひどく後悔したことを覚えている。
いつしか自分が投稿したいものより他人によくみてもらえるものをSNS上に流していた。

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そうやって運営するSNSが苦しくて、私よりもいいねをもらう投稿が妬ましくて、いつからかいいねがつくSNS上で私は発信することを避けていった。
見るだけのSNS運用は私の心のざわつきを鎮静化させていった。
それでも完全に拭い切れたわけではない。
空の写真を投稿するアカウントでは頻繁に空の写真を投稿するし、ストーリーという形でインスタグラムで投稿することも月1回程度はある。
手放したと思っていた承認欲求は完全に手放せておらず、月1回投稿する写真はおしゃれなカフェに行った時のたくさん撮った中の1つであり、空の写真はほとんどいいねがつくことはないにも関わらずハッシュタグをつけることを怠ったことはない。
頻度を減らしても他人に認められたい心を完全に消すことはできなかったのだ。

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過度ないいねを期待したアカウントもあれば、日々のVLOGという形のアカウントまであり、SNSのアカウント運用は千差万別だ。
しかし根本は同じ、誰かに見て知って認めてほしい。そこに辿り着くのだと思う。
それを自身で認識しているかは大きな違いで、自分にはそんな側面もあるのだということを認めてあげることが大事なのだと思う。
無理に自分の満足のための投稿だと考えるから心とのギャップに苦しむのだ。

誰かに認められたい。その考えを否定するものでもないと私は思う。
ただし、認めるかどうかは他人次第なので過度な期待はしないこと。
まあ、期待もしちゃうんだけど。
そんな相反する感情を持つこと自体、全部ひっくるめて認める姿勢をこれからも続けていこうと思う。
まずは自分を愛し、認めることがSNSとうまく生きていく一歩なのだと信じて。