我ながら、机に向かう勉強という形の「学び」に関しては、これまで本当によく頑張ってきたと思う。

勉強は総じて得意だった。中学、高校と段々レベルが上がり、もちろん苦手な教科はあったけれど、とにかく真面目に取り組んで、何度も間違えて、その度に復習して…と繰り返していたら、自分の頭がクリアになってくるのがわかるのだ。それが点数という形だったり、合格通知だったり、目に見える結果になってくるところが大好きだった。自分を認められているような気がした。

勉強をしている自分が好きだった。これができたら私は大丈夫、と安心できた。当時の私は、不安を取り除くために、勉強という形の「学び」を重ねていた。

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逆に言うと、それ以外で自信があるものはあまりなかった。体育は苦手、部活はもっともっと実力のある子がわんさかいる。絵も描けない。人前で喋るなんてまっぴらごめん。そして何より、私はトロくてミスが多い、いわゆる「仕事ができない」人間なのだという自覚が強くあった。

勉強ができる自分を愛しながらも、勉強しかできない自分を常に卑下していた。勉強しながら、頭の中では常に、「それだけできても立派な人間にはなれない」という思いがぐるぐるとしていて、学んでも学んでも、自信を持つことができなかった。

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年齢を重ねるうちに、何も机に向かう勉強だけが「学び」ではない、むしろそれ以外で学ぶことの方がよほど多いということがわかってきた。特に、大学生になって始めた一人旅で、強くそれを感じた。

ローカル線をいくつも乗り継ぎ、季節ごとに変わる美しい車窓の景色に心躍らせた。様々な風景を見て、音、匂い、温度を感じた。自分の知らない場所を訪れるのは、それだけでとても刺激的だった。

そして、旅先のゲストハウスで、初めて会う人たちとたくさん話をした。そこには、私がこれまで全く知らなかった世界が広がっていた。仕事の話、暮らしの話、これまでに訪れた場所の話、生き方の話……人それぞれいろいろな人生がある、と知ることは、私の視野を広げる大きな学びだった。学ぶことで、選択肢が増えた。どんな自分でいたいか、何を大切にして、どんな風に生きていきたいかを考えるようになった。「勉強しかできないから、それを活かす道でなければ生きていけない」なんていうのは狭い世界を生きる自分の思い込みで、勇気を出して道を選び、その方向に行動すればどんな自分にもなれるのだと思った。

私の学びの先には、なりたい自分がいた。 

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30代になり、子どもが生まれた今、以前のように旅に出ることは減ったけれど、その分、子育てから学び続けている。子どもとの関わりを通して、自分の思い込みに気付いたり、子どもの目線からの新しい世界を発見したり、その学びは旅の視点とはまた異なり、ときにとても難しく、アクロバティックで楽しい。

そして、知るだけでなく、行動することで学びが活きるということもわかってきた。学んで、次はどうなるかな?と少し期待しながら実践し、子どもはこちらの予想の斜め上をいくような行動で返してきて、またそこから学び……を毎日繰り返し、その先には母としてどんな姿を見せたいか?子どもとどんな関係を築きたいか?という「なりたい自分」がいる。学んで、実践して、ほんのたまに、幼い我が子に私の思いが伝わったのかな?と感じられると、とても嬉しい。長い年月をかけて、学ぶことが、自信に繋がるようになってきた。

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どんな環境に身を置いても、私は学び続けたい。そしていつかは、学んだことを、次の世代に伝えるという役割も担っていきたい。旅を続ける中で、私がいろいろな価値観を知ったこと、こんなことがしたい、と自分の心の声を聞けるようになったこと、子どもが生まれてから、子育てはいろいろなものに対する自分の見方を大きく変えてくれたこと、そんな学びの数々を伝えたい。その上で、子どもや周りの人たちが、かつての私のように、目指す道しるべを見つけてくれたら、それが私の学びの先にある、「なりたい自分」だと思っている。